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『松庵の本木』がブランド

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 竹は私たちの日常生活にとって大変身近な存在だった。縄文時代の遺跡から竹製品が出土しているそうで、それほどの昔から私たち日本人は竹とともに暮らしてきた。様々なザル、カゴにはじまり竹竿、扇子、団扇、物差し、竹トンボ、竹馬などなど、身の回りにあった竹製品を次々に思い出すことができる。ところがいつの頃からか、身近にあった竹製品の姿が見えなくなってきた。竹トンボや竹馬のように子供の遊びの対象にすらならなくなったものや、台所にあったザル、衣装カゴのように日常の生活の中で使われなくなったものも多く、竹製品は、プラスティック製品の登場で消えていった。

 本木文平さんは、竹職人の父利喜蔵さんと二代にわたって、杉並区松庵で竹にかかわる仕事をしてきた。今回は 本木さんに、竹をめぐるいろいろな話をお聞きしようと思う。

竹は孟宗竹と真竹

本木さんはいくつのときから竹にかかわる仕事を始められたのですか
「学校出てすぐ、父親の手伝いということからはじめたから、18歳のときになるかな。昭和8年生まれだから、昭和26年ごろということになるね。主に、私は植木屋さんを相手に竹材を仕入れて売っていて、父が竹カゴの職人だった。その頃はね、松庵小学校はまだなくてその辺は、岸野さん、栗原さん、窪田さんの土地で、孟宗竹の藪だった。そのもう少し先に行ったところの栗原さんの土地には真竹が生えていた。その竹を譲ってもらってカゴを作っていた。細工に使うのはこの二種類。孟宗竹は太くて荒く割けるので、農家で使うかごに向いているの。豚カゴといって豚を入れられる大きなかごができた。高さが1m2,30、長さが2m、幅がこのくらいかな」、と広げた手の幅は1mぐらいだった。そのとき思い出したのが、江戸時代の罪人を入れて運ぶ唐丸カゴだけど、そんなものはもちろん作っていない。豚カゴより大きいのは、小学校の運動会で玉転がしに使う丸いカゴだそうだ。「真竹は細いけど粘りがあって細かい仕事に向いていた。小さいものは真竹でないとね、作れない。色の良さ、つやがあって、美しさは真竹だね。それに、垣根はいろいろあるけれど、あれは全部真竹。うちはザルも作ったけれど、カゴが専門、それでご飯を食べていた。」

竹は切り時が大事

 国内で生育する竹は600種ほどになるそうだが、本木さんは「あと竹では関西の黒竹と千葉の女竹。女竹は加工すると清水竹と名前が変わっちゃうの。女竹は密生しているんだけれども、今あんまり使い道ないでしょう」、と二つ、挙げてくれた。
 竹は成長が早く、一日で、孟宗竹で119cm、真竹で121cm伸びたという記録がある(林野庁ホームページ、「竹のはなし」)。竹は伐採する時期が大事だと言う本木さんの話を聞いてみる。「切るのは一年で一遍だけ、虫が入るからね。切り時を切(セツ)というけれども、切がいいとか悪いとか言ってね、水が上がった後がいいの。竹が眠ると言ってね、冬眠に入った頃、そうねー、11月ぐらいだね。この時期がすごく大事で、時期さえ間違えなければ虫が入らない。春、藪に入って竹に生まれた年を書いておいて、切り時が来れば自分で切っちゃう。竹は一年で伸びちゃって、後は固まるだけだから、一番いいときは三年目だね。一年目のは新子というんだけれど、柔らかくて折れやすいから、カゴの縁をまくのに使うぐらい。四年、五年も経つと、つやが無くなってきて使えない。竹は面白いもんで、日当たりのよいところに生えているのは、こわくなってよくない。硬くなって割れてきちゃう」。

竹の虫を食べる

 いま昆虫食の話題を、雑誌などで見かけるが、本木さんはこの竹の虫を食べたことがあるそうだ。「竹に入る虫というのは、鉄砲虫と言ってたけど、食べるとうまいんだよね。虫に詳しくないけど、大きくなったらカミキリムシになるんじゃないかな」。ネットで「竹 害虫」と入れて、調べてみると、竹の害虫としてタケトラカミキリとベニカミキリが出てきた。白いイモムシのような幼虫からさなぎを経て、この成虫になると説明されていた。写真を見る限り、食べるのは幼虫の方だろう。味は確認していないが、ミャンマー料理では竹虫が調理されるようで、レストランのメニューの写真によく似ている。関心のある方はレストランで味わってみてはいかが。パンダは竹を食べますねと聞くと、「葉っぱだけじゃなくて固いところも食べるんだよね。何の栄養があるのかね。人間は竹の子を食べるけど、うまいのは孟宗竹ので、真竹のは苦いんだよね。だから食べない」。真竹は苦竹とも書かれ、ニガタケともよばれる。話を本題に戻そう。
そうやって切った後、カゴになるまでの手順はどうなるのですか。竹は木材のように寝かしておくのですか。
「竹はたくさんは要らなくて必要な分だけ切ってくればいい。採り過ぎても無駄になるだけだ。この近所の竹藪で間に合っちゃう。一人の職人が使う量は知れてるからね。日陰に置いておくけども、あんまり時間がたっちゃっても使い物にならない。そこが木材と違うところだね。一年も二年も置いとくなんてことはしない。そこでカゴを作るとなると、一本の竹を割って、さらに四枚に裂く。これを竹ヒゴというけど、一本の竹から竹ヒゴが何十枚ととれるからね。何本も要らない。竹ヒゴは、一枚目から四枚目までそれぞれ特徴があって、一枚目の皮が一番良くて、だんだん固くなってくる。そして表、裏をちゃんと保っておかないといけない。表裏を逆にするとだめなの。それを編み込んでいってカゴにするわけだ。ここが職人の腕の見せ所だね。」
できたカゴを買うのは地元松庵の農家ですか?
「そうね、松庵の農家が売り先で一般の家庭は、昔は使ったでしょうけど、そんなに使わないから。今カゴ製品はビニールになってしまったから、カゴ屋はもういないでしょ。農家もほとんどなくなってしまったから、カゴを買う人もいなくなった。カゴはね、雨ざらしにしたりしないで大事に使うと、何十年も持つの。そうすると売れる数も減って商売としてはうまくないけど、粗末に扱われるのを見るのはやだね」、と職人としての父の気持ちを代弁するかのようだった。

竹職人の利喜蔵さん

少しお父さんのことをお聞きしたいのですが…。
「父は、大正の終わりころ小金井(栃木県)から松庵に来て、岸野さんに家を借りて職人としてスタートした。明治37(1904)年の生まれだから、21か2のときになるね。日が出る前から暗くなるまで、そして暗くなっても働いていた。一日三~四時間しか寝てなかったんじゃないかな。そうしないと食べていけなかった。その頃、職人の手間賃が日に一円五〇銭ぐらいだったんじゃないかな」。当時(大正15年)の喫茶店のコーヒーが一杯一〇銭、ビールが一本四二銭だった(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。「職人の稼ぎは少なかった。今にして思えばよく食べて行けたね。オヤジは大変だったろうと思うよ。だから子供を職人にしようとはしなかった。学問を身に付けろという考えで、学校に行かせてもらった。それで、私は竹を四枚にわることもできない。簡単そうに見えるだろうけど、素人には手を出せない。私はもっぱら竹材の仕入れと販売を受け持って、オヤジの手伝いをしたわけね」。
 本木さんは、お父さんの修業時代の話を思い出して、職人になる苦労は並大抵のことではないと次のように話してくれた。「父は小学校を出ると修業に出たわけ。はじめは子守と雑巾がけだ。なかなか竹材や刃物に触らしてくれない。危ないしね。それからだんだんと簡単なことからやらせてくれる。親方が、よし、独立しろというまでが、修行だ。つらい仕事に耐えて一人前で、途中でやめていく人が多かった。奉公に十年はいかないと職人になれない。そんなこんなで一人前になっても、大変でしょ。仕事は、手間のカタマリみたいなもんだから、そんなに儲かるなんてことはないし、土をこねて茶碗作るにしても、名人という評判をとるまではもっと大変だ。大概の職人は、歯食いしばって頑張って、身体、使って来たから、歳とると歯がないの。自分が言うのも変だけど、立派な父親だったね。飲むのが好きだった。55のとき倒れて、働くのをやめた」。
本木さんのお店は何という屋号でした?

「そんなのないの。店の名前はないし、看板もないの。『お前の作るかごはいいな』と言われるのが宣伝であり屋号なの。『松庵の本木』で通っていた。信用が大事で、すぐ壊れるような、いい加減なものを作ったら生活ができなくなっちゃうから、命懸けだ。ここで駄目になったからって、知らないところに行ったって食べていけないんだから、人との付き合いは大事だ。父は人から受けた恩は決して忘れなかった。竹を譲ってもらったりして、松庵の地主さんに大事にされたおかげで、食べてこれたので、地主さんには頭が上がんない」。恩の大切さを強調する本木さんは、「今の時代、恩や感謝という言葉が無くなっちゃった」、と悲しそうな表情だった。

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お父さんの時代、竹屋さんというのはどのくらいあったのですか?

「大体、村ごとにカゴ屋はあったね。久我山、高井戸、松庵、関前とかに一軒づつあった。ある程度離れてないと、商売はうまくいかないよね。数えたことはないけど、農家が百軒以上ないとやっていけないんじゃないかな。さっきも言ったようにカゴは大事に使えばもつから、そんなに売れるものじゃないしね。沢山作って、今度は市場に持って行っても買いたたかれちゃう。安くても仕方ないから売ってしまうんだよね。うちがこの辺りで最後のカゴ屋だった。この商売はね、ビニール製品がはびこってきたときにもう、駄目なんです、負けちゃったんです。それに跡継ぎもいないしね。見込みがないって、そう思っていたから、仲間が止めていくのを見ても寂しくなかった。私は仕入れ販売をしていたから何とかやってこれたけど、とうとう力尽きて竹の仕事を止めよう、と思ったのが平成20年頃だった」。
本木さんはお父さんの手伝いをするかたわら、文房具店を始めたのですか?
「よく知ってますね」、と尋ねられたので、以前、『西荻春秋』に金田一先生に登場していただいた時、本木さんの文房具屋さんによく行った、という話を聞いたものですから、と答えると、嬉しそうに話を続けてくれた。「あ、そうなんですか。松庵小学校ができたときに始めたんですよ。私が高校出てすぐに始めたの。今の文房具屋と違って何でも売りました。よろず屋だね。運動足袋なんかも扱ったけど、運動会のときの一回限りのもんでしょう。ノート、鉛筆はもちろんだけども大きな紙とかね、いろいろあった」。松庵小学校は、開校は昭和27年4月だが、他の小学校に間借りしていて、松庵の現在地に校舎ができて移ったのは同年9月のことになる(同小学校同窓会ホームページ)。

話終わって、少し竹のうんちく

 私たちと長い付き合いの竹は、はじめに述べたようにいろんな形で利用されてきた。食用にされ、道具を作る材料にされ、そして竹材としてだけでなく皮も使われる。子供のころ、おやつ代わりに梅干しを皮で包んで、しゃぶっていた思い出を持つ方も多くいるのではないだろうか。ちまきは笹の葉で包んでいる。肉屋さんは肉を竹の皮で包んで売っていた。「お弁当のおにぎりもそうだった。竹には殺菌作用があるからね、食品関係にもいろいろと使われたね」、と本木さんは懐かしそうに話す。
 空気も殺菌されるのか、竹林に入ると、何か清々しさを感じることがある。気持ちが洗われるような気分である。スッと一風吹いてくると、思わず姿勢を正したくなるような、まさに「地上にするどく竹が生え」た、静謐な感じがする。大げさに言えば神社のような聖なる場所に来たと思わされるのだが、そんな経験はないだろうか。誰もが知っている『竹取物語』では、竹の中からかぐや姫が生まれるが、彼女はこの世の人ではない。月に帰るのだから月の人、つまり天にいる存在、聖人が竹林で生まれる。竹林はそういう場所だった。「竹林の七賢」は世俗に背を向けて、竹林に入って清談にふけった、という故事もある。そんなことをあれこれ想うと、松庵の竹藪が消えてしまったのは、恩や感謝の言葉がなくなってしまったという本木さんと同様、悲しく寂しい気持ちにさせられた。桜並木の保存を言うなら誰か竹藪の保存に乗り出してくれないかな、と思う。地震のときにも役に立つのだから。小学校の南側には梅の木がたくさん集まっていて、季節にはきれいに咲きそろう。近くに竹藪を復活させてくれれば、松庵の竹藪に梅となって縁起もいいのだけど…。
 ところで竹はイネ科の植物だが、木なのか草なのか、どちらだろうか。専門家の間でも意見が分かれるそうである。異質なものをつないだという意味で、「木に竹を継いだような」という表現を使うことからすると、竹は木の仲間でないような気もする。『古今和歌集』に次の歌がある。「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの はしにわが身はなりぬべらなり」(雑歌下)。桓武天皇の女、高津内親王の歌と注が付けられているが、平安時代にすでにこのように思われていたのが面白い。これに対して現代、世界的に有名な竹博士である上田弘一郎京都大学名誉教授は次のように力説されていて、さらに面白いので紹介すると、「竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だ!」そうです。
 後日、養鶏家である窪田幸子さんの指摘によると、唐丸カゴの唐丸とは鶏の一品種だそうで、そもそも、その鶏を入れるかごを唐丸カゴと呼んだそうです。罪人を運ぶカゴは、形がそれに似ているのでその名がついたということでした。

 鶏と言えば伊藤若冲の名が浮かぶ。『若冲の描いた生き物たち』(小林忠ほか、学研プレス)のなかで、「紫陽花双鶏図」の解説に絶滅した大唐丸、現存する唐丸の話題が紹介されている。「…若冲の絵に描かれているもののなかには、大唐丸とおぼしきものが多く、絵画的価値だけでなく、家禽史の資料としても貴重なものといえる」とある。

文:鈴木英明 写真:澤田末吉

取材日:2018年5月28日

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地域に在るお寺として~慈雲山荻寺光明院・副住職田代弘尚さん~

“荻寺”の発展

 JR・東京メトロ丸ノ内線荻窪駅の西口を出て、商店街に沿って西へ進んだところに、「荻窪最古」の言い伝えをもつ古刹がある。それが慈雲山荻寺光明院である。
 光明院のかまえは、JRに乗っていても目に入る。中央線の線路にそって歩く人たちは、知ってか知らず、光明院の境内を東西に横切る「荻の小径」をたどっていく。光明院は地域に開かれた寺院だ。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N001-1024x662.png です光明院本堂

 和銅元年(708)、一人の行者が、行基菩薩が作ったという千手観音像を背負ってこの場所を通りかかった。すると不思議なことに、突然背負った仏像が重くなり、動かなくなってしまった。「きっとこの尊像は、この地をお気に入りになり、離れたくないのだろう」そう考えた行者は、付近に生えていた“荻”をあつめて、小さな草堂を作った。これが光明院の始まりであると、お寺の縁起では伝えている。これが“荻窪”地名の発祥であるともされている。

 光明院の概要については、19世紀初頭に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には以下のようにある。
 ——— 青梅街道の内にあり。慈雲院と号す。新義真言宗にて、中野村宝仙寺の末。客殿五間半に六間、東向なり。本尊千手観音の塑像を安置す。長三尺八寸、開山開基詳ならず。されど当寺世代の僧権僧都弁教は、寛文六年三月に寂せりと云えば、それより前の起立なること知べし。——–(読みやすいように旧字は新字に、カナはひらがなに直した)

 今の時代、地域のなかでお寺はどのように地域と接しているのだろうか。ぜひともお寺の人にこのことを取材したい。それを大きな動機として、光明院に取材を依頼したところ、快く応じてくださった。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N005-1024x578.png です光明院の副住職 田代弘尚さん

 今回、取材させていただいたのは、光明院の副住職田代弘尚さん。現在の光明院のご住職、田代弘興氏は、真言宗豊山派の管長(一宗一派を代表する最高責任者のこと)を務めていて、真言宗豊山派の総本山長谷寺(奈良県桜井市)にいらっしゃり、光明院は副住職さんが今は守っている。
 お寺の雰囲気に少し緊張してうかがう私たちに対し、とても気さくに対応してくださった。午前中に法事があったというお忙しいなかでありながら、「写真を撮るのなら着替えてきますよ」とわざわざ法衣に着替えてくださった。おかげでこちらも次第に緊張がほぐれていった。
 弘尚さんは荻窪で生まれた。お寺の行のため、関西に6年いたほかは、荻窪で暮らしている。小学校は光明院と同じ真言宗豊山派のお寺である宝仙寺(中野区)が設置母体である宝仙学園小学校に、東京メトロ丸の内線を使って通っていたという。
 光明院は宝仙寺の末寺である。明治期までの光明院は、「田舎寺」であったという。そのころの光明院は“無住”だったという。

 そこで中野の宝仙寺の貫主が住職を兼ねていた。実際に、本堂が明治21年(1888)に甲武鉄道の開通時に移転した記念として建てられた碑にも、「当山(光明院:執筆者注)兼住職宝仙寺第四十七世」という文字が刻まれている。弘尚さんの曾祖父は、もともと福島の出身で、中野の宝仙寺で修業をしていたのだという。その時にたまたま見いだされ、光明院の住職になった。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-1024x585.png です甲武鉄道開通時に本堂が移転したことを記念する碑

「かつてこの周りにはなにもなかったのかなと思います。うちの場合は、昔はお金もなくて檀家さんも少なかったような小寺で、そんな時にたまたま線路を引くという話があって、それが境内地を通るので境内地を割譲することにもなりました。また住職がいなかったときに兼務というかたちで宝仙寺さんが助けてくださったんです。これが今になってみれば駅からも近いという立地が幸いすることになりました。お檀家さんがだんだん増えてきたのも、いろいろな要素があって今に至っているのかなと思います」

 荻窪という地域の発展とともに、光明院は現在の発展を迎える。駅から近いという理由でお参りする人も多いという。檀家ではなくとも、駅から近いという理由で斎場を使う人も多い。

時代のうつりかわりとお寺の役割

 かつて光明院は「観音保育園」という保育園を経営していた。その保育園があったころには、地域の盆踊りも行われていたという。昭和43年(1968)現在大斎場となっている観音ホールが建立され、ここでかつて保育園の子どもたちもお遊戯会などを行っていたという。さらに、ご住職は保育園の園長をやりながら、人形劇団をやっていて、観音ホールにあったステージで、人形劇も上演していたという。
 しかし、だんだんと地域に子どもが少なくなってきたり、人形劇の時代でもなくなってきたりという要因が重なり、観音ホールは1990年代に改装、これからの時代は自宅でお通夜や葬儀を行う人が減り、お寺でお通夜や葬儀を行う時代になるだろうということで、現在のような斎場になったのだという。

 時代が変わっていくともに、地域のなかでのお寺の役割も変わってきた。お寺が地域の祭りなど、コミュニティの中心になっていた時代が終わり、近年「葬式仏教」と揶揄されるように、「葬送の場所」としか広く認識されなくなってきた。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N004-1024x470.png です荻の小径

 お寺の役割変化をうけ、光明院の認識もかわってきたという。「荻の小径」がそうだ。線路沿いに整備された通路は、光明院の境内にある。この小径には、荻窪の歴史の象徴でもある荻や、季節の草木があり、往来する人々の目を楽しませている。また小径は脇の通用門から24時間通行が可能だ。これは光明院が地域に開かれた寺院として存在するためのひとつの工夫だという。

「出会い観音」と呼ばれているご本尊も、人を引き付ける。かつて盆踊りが行われていたとき、この境内に参拝した人たちが結ばれることが多かったという。(ご本尊は普段は非公開だが、毎年3回御開帳される)
 言い伝えを活かした“戦略”も、お寺が地域に開かれる契機になる。
 また災害に際して、お寺がもつ役割は大きい。光明院では、非常食の備蓄もしているという。なぜならば、地震などの自然災害が起こると、人は自然とお寺にあつまるが、救援物資が届くのは、ほとんどが公営の公共機関だからだ。いざという時に頼れる場所であるための工夫・努力・知恵だ。
「この周辺は割と災害対策はしっかりしていて、公的機関には防災のシステムはほぼ完備されているんですよね。それでもお寺としても防災の備えをしておくべきなのかな、と思うんですよ」
 防災の意識、それが今の時代に課せられた「お寺の努め」だという。
 年中行事として、大みそかには除夜の鐘を先着順(108回)でつくことが出来る。ご奉納は1000円。振る舞い酒も出る。
 近年は除夜の鐘をうつことが出来る寺院も減ってきている。家族で運営している寺院も苦しいところがあるという。
「除夜の鐘という行事で、鐘をついていただくこともコミュニティの一環です。これも未来永劫、続けていかないといけないなと考えています」
 移り変わっていく時代に順応していくことが、寺院としても求められているのだという。

聖と俗

「お寺には「聖」と「俗」の部分があるんですよ。このお寺を残していくような「俗っぽい」ことも続けていかなければ、お寺も生き残っていけないと思っています」
 “ペット”へのまなざしも、近年かわってきているのではないだろうか。ペットも家族の一員として、近年ではペットのお墓も売り出している寺院や共同墓地がたくさんある。
「真言宗の教えではペットは“畜生”なので、これを一緒に人間と葬るのは本来ダメなんですよ。ですので、今は光明院ではペット供養はやっていません。でも、これからはそう言ってもいられなくなるのかもしれない。例えば、災害時に小学校などの公共機関にはペットを連れて逃げられません。その場合に、お寺を開放してあげるようなことも必要になってくるかもしれない。考え方はいろいろあるのですが、ひとつの案として、例えば犬塚のようなものを作って、教義に反しないように人間とは別に葬ることも、これからの時代には求められてくるのかもしれませんね」
 社会へ対する“俗”なアプローチを行いつつも、“聖”の部分も守っていくことがお寺という場所だ。
「常々我々のなかで言われているのは、真言宗の宗派として、我々が社会に迎合してはいけない、仏教観は変えてはいけない。ただし、社会がどう動いているかはだけは、よく見ていかなければならない。ということです。お寺だからといってなにも変わらずに社会から取り残されることもいけないことだし、だからといって教えや教義をねじまげてまで迎合するのもだめ、ということです」
 真言宗豊山派では、そのバランスをとることを教えているという。
 そもそも真言宗は、大きなものだけで18の宗派に分かれている。もちろん、おおもとは平安時代初期に空海がもたらした“密教”である。
 真言宗では、経典を議論していく。当然、僧侶によって読み解き方がかわっているわけであり、その大きな流れとして「分派」することになる。
 光明院が属する真言宗豊山派は、根来寺を中核として新義真言宗の一派で、16世紀の末頃、大和長谷寺(奈良県桜井市。豊山派総本山)を再興した専誉が起こした宗派とされる。
 江戸時代に宗派を広げていくなかで画期となったのが、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院が、護国寺(東京都文京区。豊山派大本山)を開創したことによる。護国寺は徳川将軍家の祈祷寺として存在し、豊山派は護国寺を中心に関東へ末寺を広げていった。
 歴史のなかで培われてきた教義を守ることも、必要であることに違いない。

人々の仏教との接し方

 最近の人たちの仏教観は変化してきているのだろうか。
「仏教観そのものは変わっていないんですが、仏教との「付き合い方」が変わってきたんじゃないでしょうか」
 例えば“お布施”。「お布施の値段」は決まった料金ではない。だが「値段を決めておいてほしい」というのが最近の傾向だという。
 おそらく「聞くのが面倒くさい」のではないか。と弘尚さんは考える。
 昔はお店の店員さんと話をして、値段交渉をすることがどこのまちでもあった。値札はあってないようなものだったのだ。しかし、今は店員と話して値段を決めるというやりとりは、ほとんどなくなってしまった。値札通りに支払うし、値段交渉をすることはほぼ無い(近年は家電量販店などではそれが出来ることが「ウリ」になっている傾向もある)
 コミュニケーションの方法が変わったことにより、人と接するのがわずらわしいのではないか。だから事前にお布施の料金も決めておいてほしいのだろうと推測する。
 そもそもお布施の値段が決まっていないのは、人によって値段の重みが違うからだという。
「例えば卑近な例ですけれど、今日食べるものにも困っている人がもってきたなけなしの一万円と、大金持ちが“これくらいでいい?”と持ってきた一万円、同じ一万円でも重みが違うわけですよね」
 かつてお寺は地域のコミュニティの中心にあって、檀家さんなど地域の人たちの生活状態も把握していた。
「あのおうちは今日食べるものも苦労しているのに、こんなに一生懸命お布施を持ってきてくれたんだから、葬式も供養も心配しないでいいよ。と言ってあげるのがお寺の付き合いだったんです」
 コミュニケーションが取れている時代ではこれが出来ていたのではないかという。
「人との接し方が昔とかわってきたがために、お寺がいまの人たちにとって面倒くさいものになっているんですよね。その垣根をはらうのは料金を決めることが簡単なのかもしれないけれど、あえてそれでもお寺から声をかけることが大事な時代で、若い人たちの“仏教観”もそれによって、変わっていくのではないかなと思います。わずらわしく思われたり、余計なお世話だと思われたりするだろうことは重々承知の上ですけれど、それを聞くのが住職の仕事なのかなと」
 コミュニケーション不足によって、ため込んで悩んでしまう人も多いだろう。話を聞いてくれる場所があるのならば、状況は変わってくる。
 時代の変化のなかで、お寺と地域との関係も、大きく変わっていった。お寺の教義やお寺の存在そのものが変わったわけではない。社会との関わりももちろんのことだが、行政との関わりも現代の寺院をとりまく大きな問題の一つである。
「今の時代にとって宗教の役割が何なのかも、考えていかなければならないですよね」

今後の光明院

 時代はこれからも変わっていく。その時にどのように伝統を引き継ぎながら、社会とかかわっていくのだろう。
「やっぱり今は難しい時代なので、ともかくもお寺を守っていくことが大事だと思っています。十年後、二十年後に檀家制度がどのように変化しているのかもわかりません。檀家を増やすための入口も変わっていくんじゃないかと思います」
 現代では、「お墓を持つ」ということが檀家への入り口となる。いわば「聖」なるものを契機として、必然的に檀家関係になることが多い。
「今でもそうですけど、なぜお寺に行くのか、例えば京都のお寺だったら名所が多いとか、現世利益を求める精神的なものだとか、そういう理由が多いですよね。でももしそれが、世の中に受容として、前提とされるようになったときは、光明院も変化しなければいけない。もちろん教義を捻じ曲げるわけではなく、それにのっとった形で、あらたな要素を提供していく必要があるでしょうね」
 お寺が地域社会のなかで持つ意味、それを常に考えていくことが必要だという。
「例えば、お話し方教室をやるとか、前やっていた人形劇団に近いような、文化的なプログラムを地域に発信していくことも重要ですね。昔は書道教室とか剣道教室とかも観音ホールでやっていたんです。将来的に、それをきっかけに人が集まってきて、お寺が発展していくことも出来るのかもしれません」
 今回お話しをうかがって、ここまでお寺が、変化していく地域社会のなかで存在していこうとしているのかということに、(たいへん失礼なことながら)意外に思うと共に大変感銘を受けた。気さくにお話ししていただいた弘尚さんのお人柄も、地域のために発展していこうとする光明院の性格を表しているのかもしれない。

 (重ねて失礼なことながら)旧態依然として存在しているかのように思える寺院社会にあっても、そこにお寺が存在していく限り、地域のハブとしての存在は、変化を遂げながらも、未来永劫続いていくのだと思う。

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文:駒見敬祐 写真:澤田末吉
取材日:2018年8月6日

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見聞・『荻窪風土記』———相沢堀の巻

 八丁から青梅街道を歩いて、と言いたいところだが、荻窪から地下鉄に乗って一駅の南阿佐ヶ谷駅で降りて相沢堀をたどっていくことにした。向かう先は高円寺、中野方面だ。新潮文庫版の『荻窪風土記』(23頁)に「今、八丁通りと平行に地下に潜っているクリークは、大震災前にはきれいな水が流れていた。その用水が今の公正堂ゼロックス店のところで……阿佐ヶ谷に向けて分流する用水」と書かれているのが相沢堀で、「相沢堀は、今の杉並区役所の手前のところから阿佐ヶ谷田圃へ入り、東流して高円寺、中野を通り(桃園川)新井、落合に流れ、昔の神田上水の神田川に合流、関口大滝のドンドンで早稲田lの蟹川を暗渠で合流させている」とある。

逆U字杭を探す

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N001-1-1024x666.png です杉並区立第七小学校

 地下鉄南阿佐ヶ谷駅で降りて地上に出れば、そこは杉並区役所のそば、「杉並区役所の手前のところ」とはどの辺りになるのか?青梅街道を荻窪方面に戻ることになるが、そこここにある案内板ではまるで分らない。行き当たりばったりでは迷子になるだけだ。便利なネットで調べてみると、阿佐谷南3-9辺りが、「杉並区役所の手前」になるのではないかと、見当をつける。住居表示を確かめながら歩いて行くと、あった。成田東5丁目の信号のところだ。右に曲がるとすぐ、杉並区立第七小学校につきあたる。左手の角の建物には「日本大学相撲部」の看板が下がっていた。この間の道に立って左右を見回すと左手に、暗渠の印だと,八丁の取材時にお世話になった志村さんから教わった逆U字型の車止めがたっている。その後ろの暗渠の上には杉並土木事務所と手書きで書かれた鉄板がかぶせてあった。そこから上流方向に向かえば青梅街道に出られるかと思って歩いて行くと、すぐに突き当たって右に折れた道は50㍍ほどで行き止まりになっていた。相沢堀に間違いないな、と思いながら戻ってくると、小学校の校庭で遊んでいた女の子が「おじさんたち何してるの?」と金網越しに聞いてきた。カメラやメモ帳を持ったオヤジたちがうろうろしているのが、その子の好奇心をかき立てたのだろうか。「川を探しているの」と答えると、「ここに川なんてないよ」、と即座に返ってきた。「いいの、あるんだからさ」とは言わなかった。相沢堀はこの小学校の校庭の下をほぼ対角線上にくぐって流れているということなので、学校の塀沿いに廻ることにした。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-2-1024x662.png です日本大学相撲部

 学校の塀は途切れて途中から住宅街になってしまうので不安になるが、小学校の先の角を右手に折れて阿佐ヶ谷方向に向かっている通りに入った。直ぐ、右手奥に暗渠らしき道が見えたところで曲がってみると、逆U字型の車止めがあったので一安心。そこで川上に行く道は狭くなっていて、その路の左側には背の低い木が茂り、右側に立ち並ぶ家々はみな庭が路に面している。まさに川にふたをして道にしたという様がそのまま見てとれる。とりあえず奥まで行って、確かに小学校の塀から出て来た川ということを確認して逆U字杭に引き返した。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N003-3-1024x585.png です杉並区立第七小学校裏手

 そこから今度は逆に、川下方向に向かう広い道をたどることにした。かつて道路の横を流れていた相沢堀を暗渠にしたせいなのだろう。その分、道が広がっている。歩いている我々の左手に暗渠部分がある。右手に並ぶ家の玄関はこの道路に面していて、左手に並んだ家は庭が道に接している。こういう場所はいいのだけれど、もともと川だけが流れていて両岸が人家というところを暗渠にされてしまうと困ったりしないだろうか。遊歩道として利用されると、そこを歩く人に家の裏側を覗き見られる格好になる。住む人たちは落ち着かない気持ちがするのではないかと、よけいな心配をしたりするのだけれども、どうなのだろうか。そんなことを思いながら歩いたが、当時の阿佐ヶ谷田圃の様子を思い浮かべるすべもなく、緩やかにカーブする道には人家が続き、それも集合住宅が多く、ただただ東京近郊の都市化のすさまじさに、あらためて感じ入るばかりだった。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N004-2-1024x585.png です暗渠の印の逆U字型の車止め

JR阿佐ヶ谷駅までで

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N005-2-1024x463.png です釣り堀とちゃんこ田中

 その家並が切れて少し開けたところに、釣り堀「寿々木園」があった。看板に1時間600円(さお、エサ込み)とある。年配の人に交じって家族連れや若いカップルでにぎわっていた。釣人井伏鱒二に似ている人はいるかな、と横目で探しながら通り過ぎると、商店が並ぶかわばた通りにぶつかる。この通りを横切った数軒先が、日本大学の田中理事長の奥さんが経営しているというちゃんこ屋だ。相撲番付と同じ書体で書かれた看板「たなか」の文字が飛び込んでくる。ここまでの相沢堀は、日大相撲部通りと言ってもいいぐらいかな。ちゃんこはまたの機会にして、かわばた通りを左に入って行くと阿佐ヶ谷駅西口高架下で、その手前にまた逆U字杭を見つけることができる。そこからJR中央線に沿って相沢堀は流れていくが、その先はもう阿佐ヶ谷駅、中杉通りを越えた駅ビルの向こう端から暗渠はさらにつづく。とりあえず、その場所を確認したところで我々取材班は、相沢堀探訪をここまでにして、荻窪に帰ることにした。ただ電車で帰るのではなく、井伏鱒二が歩いた同じ道で徒歩で行こうとしたのだが。
 彼が、「昭和二年の五月上旬、大体のところ荻窪へ転居することにして阿佐ヶ谷の駅から北口に出て、荻窪のほうに向けてぶらぶら歩いて行った。突きあたりの右手に鬱蒼と茂った天祖神社の森というスギの密林があって左手にある路傍の平屋に横光利一の表札があった。横光は流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われていた。」(新潮文庫版、18頁)と、書いてある道を歩いてみようという気を起こしたわけだ。しかし事前になにも調べずに、いきなりその道を歩こうとするのは無理である。まず行くべきところは図書館だった。

天祖神社と横光邸

 後日、『杉並町全図 昭和三年』『同 昭和六年』で調べてみると、六年版の地図に、駅近くに天祖神社の記載がある。現在の神明宮である。神明宮発行の「参拝の栞」には、主祭神は天照大御神で、平成2年、社号を天祖神社より創建時の神明宮へと複称と、記されていて、このお宮が以前、天祖神社とよばれていたことがわかった。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N006-1-1024x585.png です荻窪風土記の中の「天祖神社」 現在の「神明宮」

 森泰樹の『杉並風土記』には、「河北病院五十年の歩み」に書かれた中島善四郎の次の一文が紹介されている。「昭和の始めの頃の阿佐ヶ谷、特に四丁目(現在の北一丁目)を私は気に入っていた。……森に朝霧がかかると、湿地の芦叢ではヨシキリが鳴く。一日中鳴くのであった。土用になると暁方と夕方には相沢さんの杉森、天祖神社の杉森、世尊院の杉森、この三つの大杉森で一斉にヒグラシが泣き出す。……」と。鬱蒼と茂った天祖神社の森が当時、どんな様子だったのか、知ることができる。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N007-1-1024x585.png です神明宮の桜

 そこで横光利一の家は、上に引いた井伏の文章によれば、天祖神社の向かいに位置するように読めるが、通りを挟んで向かい合うというような位置関係ではなかった。『炉辺閑話―杉並郷土博物館だより 第27号』に、昭和2年、横光が住んでいたのは杉並町阿佐ヶ谷290番地(現・阿佐ヶ谷北3丁目)であった、と本橋宏己が書いている。三年版の地図で探すと、阿佐ヶ谷北3-5辺りである。その住いについて、『横光利一全集』(改造社)の月報に竹野長次が次のように綴っている。「私が横光君とお會ひしたのは昭和二年の夏の初頃であったとおぼえてゐる。その頃、君は阿佐ヶ谷に住んで居られた。驛を降りて北の方に進むと尼寺があって、杉の森があった。その森の緑に添ってなほ北に三四丁程行くと、左の方に真直ぐに伸びてゐる路があり、その路は『玉野』といふ地主の家のある森の中を横切っていた。その森を出はずれたところに、左側にやゝ南傾斜になった二百坪許りの宅地があり、そこに四十坪餘の家が建ててあった。それが横光君が新しい奥さんと楽しい夢を結ばれた思い出深い住居であった」。
 ついでに言うと、その住いを見つけるにあたっては、当時菊池寛家の書生をしていた那珂孝平が横光に頼まれて手伝っていた。那珂はその家について、「家賃五十園で五間のかなり大きな家を借りた。……横光さんはその年震災前に『日輪』『蠅』『マルクスの審判』などを発表して新進作家の地歩を固めていた。」と、思い出を語っている(『定本横光利一全集』月報6、河出書房新社)。

 あらためて地図を片手に阿佐ヶ谷駅北口から歩いてみた。駅前のバスターミナルを渡って、ビルの中の北口アーケード街を抜けて、やや左に曲がる道を北に向かった。この道は旧中杉通りだが、松山通りと街灯に表示されている。商店がずっと続いて賑やかだ。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N008-1-1024x585.png です法仙庵

 少し行くと、この通りに面した法仙庵というお寺につく。門前に掲示されている縁起には、「その初めは文久年間(1861‐63)阿佐谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり……作った共同墓地です。そして、墓地管理のため、江戸浅草・海雲寺(…)末寺・観音庵(…)より実山見道尼を初代庵主として請じて、開創したのが当庵です」(杉並教育委員会)、と説明されていた。まさに尼寺だ。さらに、「東側の塀に沿った道は、権現道と呼ばれた古道で練馬円光院子の権現(貫井5-7-3)におまいりに行く参詣道でした」と、書かれていた。商店街になっているこの道はかつての参詣道であったのだ。ちなみに、相沢堀はこの名主の相沢喜兵衛の名前である。法仙庵を過ぎて3、400メートル(1丁を約100メートルとすれば)行って、そのあたりで左に折れる真直ぐな道を探すと、ありました。多分、この道だろうと見当をつけて歩いて行くと、『玉野』の表札がかかったお屋敷があらわれ、その先の左手に竹野氏が書かれたような南傾斜の土地がある。横光邸のあとをしのぶことのできるような痕跡や記念碑らしきものは何もないので、確かめようもないが、多分ここがそうなのだろう。緩やかな傾斜を降りてみると、この宅地の裏手には大きな銀杏の木が一本そびえ立っている。樹齢何年かわからないが、その当時から生えていた木々の生き残りではないだろうか。井伏の歩く姿を見ていたかもしれない。井伏がたどった道はこの道でまず間違いないだろう。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N009-1-1024x585.png です横光邸へ向かう一本道

唐草模様のカーテンの明かり

 ところで、この時、井伏は横光の家に寄ることはなかった。二人はその頃、どういう付き合いをしていたのだろうか、そもそも付き合っていたのだろうか、という疑問がわいた。井伏と横光は早稲田大学文学部仏文学科の同級生、お互いに明治31年生まれの同い年だ。さらに言えば文学の師も佐藤春夫で同じであった。もし親しい間柄ならば、突然訪ねてもおかしくはないのではないかと思い、そのあたり少し調べてみた。
 横光は自分の学生時代について「富ノ澤麟太郎」という随筆で語っている。「彼(注・富ノ澤のこと)は私とは同じクラスであったが初め私は彼を少しも知らなかった。私の組には常に一室に二百人近くもゐたからだ。……私は滅多に自分から友人や人々を訪問したことはなかった。その頃私は外へさえ出歩いたこととてなく、学校でも人々と言葉を交えたことさえ殆どなかったにも拘わらず、彼の場合だけは私から彼の下宿へ突然に訪問した」(『文藝時代』、大正十四年五月号)と。二人は話が合って、これをきっかけにして親しい仲となるが、横光がこれでは、同級生でも俺、お前と気安く呼び合えるような関係になるのは、難しいだろうなと思われる。
 井伏も「富ノ澤麟太郎」(『新潮』、昭和44年1月号)と、同じ題で書いている。そこには、銭湯で友人から富ノ澤を、「佐藤さん(注:春夫のこと)のお弟子さんで、横光利一の親友だ」と、紹介される場面がある。『荻窪風土記』でも井伏、横光、そして二人の共通の友人富ノ澤が新大学令で同じクラスになった、と出てくるけれども、二つの「冨ノ澤麟太郎」も含めいずれにも、それぞれの関係が発展して三人一緒の付き合いが始まるようなことは書かれていない。(『荻窪風土記』の「荻窪(七賢人)」の章で、横光の一周忌の帰りに寄った魚金で、そこの細君のはなしとして、横光と富ノ澤の二人が登場する)。
 井伏が書いたものをいくつか読んでみると、どうも横光との関係は薄かったようにみられるが、そのなかでも彼の気持ちがよく表れていると思われるのが、「阿佐ヶ谷時代の横光氏のこと」と題した随筆の次の個所であろう。「私は阿佐ヶ谷時代の故人のことは幾らか知ってゐる。書斎の窓に唐草模様のカーテンが掛けてあった。どんなに夜ふけに通っても、そのカーテンのところにだけは明かりがさしてゐた。たいてい夜ふけて私がそこを通るのは、阿佐ヶ谷あたりで酒をのんで歩いて帰る場合が多かった。私は唐草模様のカーテンの明るみを見て『またブレーキがついてゐる』とよく思った。人にも実際たびたびそう云ったことである。ブレーキとは、こちらの堕落を防ぐブレーキの意味である。故人の存在は私には堕落を防ぐブレーキであった。そのころも私が堕落しきることができなかったのは、このブレーキが可成り効きめがあったやうに思はれる。」(『風雪』昭和23年4月号)
 また同じ時期に書かれた次の文章からも、彼の横光に対する気持ちを読み取ることができる。昭和23年8月、『新大阪』という新聞に、井伏は「菊池・横光・太宰を想う ――新盆を迎えて」題した一文を3日、4日、5日の3日間にわたって寄せている(横光は昭和22年12月、菊池は23年3月、太宰は同年6月に亡くなっている)。そこで横光のことを次のように書いて偲んでいる。「……したがって七年近くの間に、それも甲州でたった一度しか会わなかった計算になる。そんなに私と横光氏との個人的交渉は薄かったが、この人の存在は私にはいつも一つの目標となっていた。出処進退に何か清潔な感じがあって、孤高を念じている人とわたしは見ていたからである。自分ではそれを真似ようとはしなかったが、作家の態度として現今また得難いものと見て、その意味で目標にしていたのである。」井伏はまた、このようにも言っている。大正十二年に横光が長編『日輪』を発表して、大きな反響を呼び、「時めく花形作家になって、私の生涯のうちで、こんな華々しい文壇進出をした人を見ない。」(同文庫版、56頁)と。
 こうしてみれば、当時、文学青年であった井伏が、「流行の新感覚派の小説を書いて花形作家と言われ」、すでに注文原稿を書いていた横光に、同級生意識などを持つことなかったろうし、また親しい付き合いをする仲でもなかったと思われる。阿佐ヶ谷の横光の家に昼間でも訪れることはなかった。ただ、この唐草模様の明かりが、井伏の心のなかで灯り続けていたのではないだろうか。

 井伏の阿佐ヶ谷駅から自宅にむかう足取りを確認できたことに満足して、天沼を抜けて彼の家のあった清水には向かわず、夏の陽に照らされた道を歩いて、荻窪駅に出た

文:鈴木英明 写真:澤田末吉

取材日:2018年3月26日

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アプローチは「西荻窪(Nishiogikubo)+社会学(sociology)」

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「都市の食文化をテーマとした、ウェブベースの東京フードカルチャーを調査するプロジェクト」を標榜する「西荻町学(Nishiogiology)」というWebページ(www.nishiogiology.org)がある。そのリーダーが、上智大学国際教養学部教授のジェイムス・ファーラーさんだ。同じ町を基盤に活動する「西荻春秋」としては、西荻窪に対する思いやこだわりについて興味津々……。ということで、今回はジェイムスさんにお時間をいただいて、様々なお話を伺うことにした。

アメリカ南部から欧州、中国、そして日本へ

 私が生まれたのはアメリカのジョージア州の田舎町です。今でも人口は3000人くらいしかいません。独立戦争(1775-1776)の頃も同じくらいの人口だったから、200年以上経っても変わっていない(笑)。10歳のときにテネシー州に移って、そこで高校を卒業し、ノースカロライナ大学へ入りました。ですから、私の故郷はアメリカ南部。昔から今に至るまで、政治的にも社会的にも保守的な土地柄です。
 大学在学中に、ドイツのデュッセルドルフ大学に留学します。そこで「海外の生活はやっぱりいいなあ」という思いを強くしました。アメリカ南部の生活は、あまり自分に合っていなかった。保守的なところから逃げたかったのです。ヨーロッパは本当に居心地がよかった。
 そんな思いもあって、1987年に大学を卒業した後、2、3年かけてヒッチハイクでヨーロッパから台湾まで旅をします。ヨーロッパではいろいろな所で働きました。イギリスでは新聞記者もやりました。スペインでは、数週間ですがサーカスで働いたこともあります。毎日象に餌やりをしましたが、とても印象的な仕事でした。
 地中海を回ってエジプトまで行き、インドやバングラデシュにも行きました。その後、台湾に渡るのですが、インドで日本人と知り合ったことで、本当は日本に行きたいと思った。でも、当時はお金もなくて……。日本はバブルの頃で、物価も高いし、とても行けなかったんです。だから台湾。
 1年間、一所懸命に中国語を学びましたね。そのおかげで「東南アジアは面白い」と感じるようになり、社会学で有名だったシカゴ大学の大学院に進みました。1998年に博士過程を修了して、中国の上海に行きます。上海には3年間住んで、中国の若い人たちの恋愛や結婚に関する研究をしました。
 そしてアメリカに戻るとなったとき、ちょうど上智大学が社会学の研究者を募集しており、それがきっかけでようやく日本に来ることができたのです。「日本は素晴らしいところだ。行きたい」は思っていたけれど、そのとき日本語は全くできませんでした。

印象的だった東京の街

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 初めて東京に来たときに、友人が吉祥寺に連れて行ってくれたのですが、ハモニカ横丁がものすごく印象的でした。もうひとつ印象的だったのが、やはりその友人が連れて行ってくれた渋谷のガード下の飲み屋街です。
 上海も大好きな街ですが、東京は本当に面白い街だと思います。住み始めてもう20年にもなるのに、わかっていないところがものすごく多い。それは、たぶん東京が歴史ある古い街だから。古くからの東京の人は、自分を「東京人」ではなく「西荻人」とか「神田人」とか称して、その所々にアイデンティティを感じていますよね。生まれた土地、住んでいる土地にこだわりがある。
 東京はロンドンに通じるものがあると私は思います。ロンドンも古い街で、鉄道が発達する前の雰囲気も残っているし、鉄道が発展するにしたがって駅ができていく、18、19世紀の雰囲気も残っています。
 では、上海はといえば、シカゴと同じような感じでいわば20世紀の街です。移民の町ともいえる。面白いけれども深いとはいえません。自分にとって特別な土地だ、という意識はあまりない。ひとつの中心市街地があるだけという感じで、面白くはないですね。しかも上海は、例えば3年も空けて久々に訪れると、自分がどこにいるのか全くわからなくなる。そんな街です。
 しかし東京の場合は、西荻にしても、新しい店は増えていても街の姿はそこまで変わっていないところが多い。現地の人に聞くと、昔ながらの西荻の特徴はまだまだ残っていると言います。そこが違いますよね。
 私は日本に来て20年ですが、最初の10年間は、毎年3カ月くらいは上海に滞在していて、ずっと中国の研究をしていました。住んでいたのは中野新橋だったので、新宿にもよく行っていました。食事をしたり歌舞伎町などを見て回ったりして、魅力的な街だと思っていた。まだ若かったせいもあるかもしれないですね(笑)。
 そのうち、たまに阿佐ヶ谷に行くようになって、阿佐ヶ谷の商店街とか街並みとか、すごく好きになりました。でも今は、古いお店が閉まって、チェーン店などが入ってきて変わってしまいましたね。
 その後、上海に1年間行くことになり、日本に帰ってきてあらためて住むところを探したときに、本当は吉祥寺に住みたいと思った。でも、吉祥寺には手頃な物件がありませんでした。西荻の人に「どうして西荻に住んでいるのか」と聞くと、「吉祥寺には住めなかったから」という話がよく出ますが、そういう人は多いですね。
 西荻がどういう街か、もちろん私にはわからなかったけれど、松庵に住むことにしました。その当時は、商店街を歩いてもあまり賑やかではなかった。
 けれども、なぜ、西荻窪に暮らしている人が「西荻人」になるのか、興味が湧きました。私も西荻が好きになっていたし、日本に長く住むつもりになっていたので「日本の社会にもっと深く入りたい」と思うようになりました。そのためにも、「西荻町学」をやりたいと思い立ったわけです。プロジェクトを始めたのは2015年でした。

興味深い日本の「飲み屋文化」「食文化」

 私は海外経験を元にした視線で日本を見てしまうのですが、日本の飲み屋文化や食文化にはとても興味があります。上海の飲食店の研究も続けていますが、中国には個人経営のような小さなお店はない。オーナーとしゃべったり他のお客さんとしゃべったりするお店はないのです。でも、上海でもそういった文化に憧れている人はたくさんいます。しかし実際には自分ではやれない。
 その理由のひとつは、職人の存在です。職人つまりシェフが、自分で料理して自分で客に提供する。中国やアメリカには、そういった職人はほとんどいません。でも、お客さんはそういうお店で飲食することで、その職人の専門知識に接することができる。私はそれがすごく面白いと思うのです。
 私の上海の友人は日本の食文化が大好きで、自分でも店をやりたいと思っています。しかし彼の考え方は、料理人を雇ってきて自分はオーナーになる、というもの。日本人の店主は1日15時間とか働くけれど、外国人には難しいことです。やるとなったらすごく辛いと思っている。
 私も、そういう職人の仕事をすごく尊敬しています。だから、そういう舞台裏を見てみたいし、その厳しい生活や仕事ぶりも見てみたい。毎日同じ仕事を、朝から夜まで頑張っている。本当に面白い文化だと思います。そして、いつか本に著したい。もちろん、今の段階では表面上をさらうだけになってしまうので、職人に対して失礼になりますね。だから難しいと思っています。

 もうひとつ、コミュニティが形成される飲み屋の象徴のような『深夜食堂』というドラマがありますが、中国語バージョンもあって、中国人もよく観ています。店主や他の客との会話を通して小さな夜のコミュニティとなっているのが『深夜食堂』ですが、本当にそんな店が存在するのかどうか、上海の友人にはわからなかった。たぶん虚構だと思っていたでしょう。

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 でも実際には、そういう常連さんがいる小さい飲み屋がたくさんありますね。私も、外国人で日本語もそんなに上手くしゃべれないのに、飲みながら他の人と結構会話ができる。これも日本の飲食店の特徴だと思います。
 この二つの事象は、社会学者から見ると、ものすごく面白い。「なぜ西荻か」と問われると、「そういう個人経営の店が多いから」となります。もちろん日本全国、いろいろな土地にもあるでしょうけれども、これほどの都会の中で小さい規模の店が集まっている地域というのは、世界中でも珍しい。街中で、そういう生活をどうやって維持するのか、不思議ですよね。簡単には答えはわからない。だから、ドイツやアメリカ、フランスの学会で私が西荻のことを紹介すると、みんな興味を持ってくれます。

小さな店だからこそ生まれるコミュニケーション

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『深夜食堂』の話をしましたが、元来は、日本人は他人とコミュニケーションを取るのが上手ではない国民ですね。だからこそ、客同士の会話が生まれ得る小さな飲み屋が必要なのでしょう。西荻などによくある小さな飲み屋でこそ、客同士あるいは店主とのコミュニケーションが生まれるのです。
 さらに言えば、飲食店の主人がうまく話を取り持ってくれるという雰囲気もあるかもしれません。
 私は、西荻での経験がそんなに長くないので、私自身が常連だという店は、まだありません。だからあちこちの店に入るのですが、それでも様子を見てみると、店ごとに微妙な差があります。それぞれの店主の性格の違いがあって、賑やかな人のところには賑やかな雰囲気が好きな人が集まる。逆に、あんまりしゃべらなくてもいいという雰囲気のお店もあります。だから、自分の性格と合う店主がいることが大事だと思います。
 ところで、社会学的に見ると、狭い空間だからこそ、という要素もあると思いますね。
 例えばアメリカ人なんかは、飛行機で隣り合わせになるだけでもお互いにしゃべり合って、情報交換したりする。特別な空間が必要ないのです。どこでもコミュニケーションが成立する。しかし私が思うに、日本の社会ではグループが大事。例えば私のグループに誰かを入れようとしても、私個人の意見では決められない。新しい人を入れても大丈夫かどうか、みなの意見を聞かなくてはなりません。
 バーのような小さな空間、例えば5人しか入れないという制限があると、そのグループという感覚が作られやすいのではないでしょうか。個人の話ではなくグループとしての話になりやすい。たとえ店主とだけしゃべっていたとしても、他の客にもその会話は聞こえているので、コミュニケーションを共有できることになる。やはり空間が小さいからです。
 制限された空間だからこそ、安心感があって盛り上がることもできる。日本人が持つ「本音と建前」という、外国人の私たちから見ると面白い感覚も崩すことができます。行きつけの飲み屋では何でもありですからね。そういう飲み屋文化自体が本当に面白いと思います。

「飲み屋」の様変わり考

 小さな飲み屋の集まりといえば新宿のゴールデン街が有名ですが、私も昔から行っていました。けれど、ずいぶん変わりましたね。日本は今や観光大国ですから、新宿にしても吉祥寺にしても、海外からの観光客がかなり来ています。ゴールデン街も、20年前に私が日本に来たばかりの頃は常連だけの小さな飲み屋ばかりだった。「会員制」という札が貼ってある、みたいな。でも今は、観光客が来ている店が多いですね。そういう客が来ないと店自体がなくなるのかもしれません。
 昔と今では、若者のお酒の飲み方も変わってきています。昔は、ママさんがいて、男性客が飲みに来る。今は、若い女性も入りやすいようにガラスドアにして、店内を見やすくしたり入りやすくしたりしていますね。若い人は、そういう店に行きたがる。

 西荻もそうです。新しくできたお店は、そんなオープンな感じのところが多い。あとは、若い男性のバーテンダーがいる店。女性を集客するためですよね。若い人に本当にすごく人気があります。若い女性客が入っていると、男性客も入ってくるということで、もちろん私も入りたい……(笑)。

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 人気がある吉祥寺のハモニカ横丁でも、今では企業グループのお店が多くなっています。例えばVIC傘下のお店ですね。外見は小さなお店が多いように見えても、実はひとつの会社が経営しているという状況。それはそれで、西荻とは違う、ひとつの素晴らしいモデルだとは思います。西荻も、もしかしたらそんな状況になってしまうかもしれない。わからないですけれども、そういった変遷を見ていくのも面白いと思います。

「西荻町学」のこれから

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 私が西荻の研究を始めたときは、2年ぐらいで終わると思っていました。けれどもすでに3年を経て、でも知っているところよりも知らないところのほうが多い。街の中の小さい飲み屋さん、食べ物屋さんが本当に多いですよね。みんな自分の小さな世界を作り上げている点も面白い。最初は、もっと幅広い取材をしようと思っていたんですが、今は、食文化だけに絞ってやっています。
 私たちは、西荻町学を、感情を込めてポジティブな気持ちでやりたいと思っています。というのは、社会学者の本能的なものとして、社会の不平等などの問題を取り上げたい。例えば、レストランの中の男性と女性の役割の違いといった、ネガティブな部分に入り込んでいきがちになります。社会学的には、何でもない話から面白いことを見つけ出すことが重要とされるので、そういう意味では社会学者は、面白い人や文化人などにインタビューするのは面倒くさいと感じる。面白すぎる話は社会学にならない(笑)。ごくごく一般的なことを知りたいというのが社会学なんです。けれども、スタッフのみんなが一所懸命に取り組んでいるからこそ、感情がこもったポジティブなものになっているのだと思います。
 西荻町学のこれからですが、将来的には本にしたいと思っています。西荻だけではなく、西荻を見本にして日本の食文化を全般的に紹介したい。高級店やそういうお店の職人さんだけではなくて、テレビでよく見る有名シェフだけではなくて、幅広く紹介したいですね。だから、ファミリーレストランやチェーン店なんかも研究していきたいと思っています。せっかくの話も、Webページには書けないこともありますよね。でも本にするときには、そんな裏話もぜひ書きたいです。
 歴史からも、もっと深く迫りたいと思います。例えば柳小路は、売春防止法が施行されるまで青線地帯としても有名でした。そういった深いところまで掘り下げて、もっともっとこの街のことを知りたい。けれども、書いてあるものとしては残っていないですから、体験者から聞くしかありません。そうやって、この町のもっと歴史的なことを調べて書いていきたいと思っています。
 でも、私たちは外から来た人間だから、この町では社会的な深いつながりを持っていません。たまにお年寄りの話を聞きたいと思っても、仕事などもあって時間が取れないことも多い。昔の飲み屋街のことを知っているママさんのお店にも飲みに行って、話を聞きたいなと思います。

 そういう意味では、私たちの「西荻町学」と「西荻春秋」が協力できればいいかもしれませんね。私たちは同じ興味を持っているのだから、どんな形でも協力できれば、面白いことができるのではないでしょうか。

文:上向浩 写真:澤田末吉

取材日:2018年9月26日

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見聞・『荻窪風土記』———井伏鱒二の世界

 井伏鱒二『荻窪風土記』(新潮社、1982)は、大正の関東大震災以降、井伏が暮らした荻窪の記憶を随筆風に綴った作品である。今回の取材では、井伏が書いた『荻窪風土記』の現場の“今”を訪ね、景観の移り変わりを記録するとともに、古くから荻窪地域に住む人々に当時の様子を尋ねることで、『荻窪風土記』の世界を〝見聞″していくことを目的とした。
 JR荻窪駅は、現在では1日平均88,000人以上(2016年度)が利用する、中央線沿線でも人気のまちである。駅北口には大型のショッピングセンター「荻窪タウンセブン」がそびえ、多くの買い物客で賑わう。東京メトロ丸ノ内線の終着駅にもなっている「荻窪」は、多くの人が行き交うまちだ。

 そんな荻窪ではあるが、昭和初期にはまだまだ人家は少なく、農村風景が広がっていたという。昭和2年(1927)、荻窪に転居先を求めに来た文豪・井伏鱒二は、「麦畑のなか」で農作業をする「野良着の男」に声をかけ、土地を借りることになる。これが『荻窪風土記』のプロローグにもなっている。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N001-2-1024x585.png です青梅街道「八丁」交差点

 我々は現在の『荻窪風土記』の舞台の様子を取材するため、荻窪の「八丁」に向かった。青梅街道の四面道交差点より西側には、現在「八丁通り商店会」がある。そこでかつての荻窪の様子を知る人を探そうと、不動産屋((有)桃井山口商事)を訪ねた。ここは総業50年を越える老舗不動産屋だ。そこで、地元の町会である中通明和会の会長志村彰彦さん(81)をご紹介していただいた。そして志村さんのお計らいで、志村さんの同級生の井口清さん(81)と、松原安雄さん(89)の御三方に取材させていただくことになった。みなさん、生まれながらの〝荻窪人″である。
 まずは子どもの頃の荻窪の風景・印象についてうかがった。

まちの景色

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-1-1024x585.png です志村彰彦さん

 「そうですね、農村ですよ。純粋な農村。荻窪駅の周りはね。荻窪駅のあたりは、後から発展したところで、実際には八丁、四面道から駅とは逆の方が繁華街だった。駅の方は家数が少なかったですよ。」(松原)
 荻窪駅が開業したのは、明治24年(1891)の12月である。なんとなく現在の常識からみてしまうと、駅の周辺こそが繁昌していたのではないかと思いがちだが、考えてみれば必ずしもそうであるはずはない。大正頃の荻窪駅は、1日に上り下りとも各9本の汽車が運行するだけでしかなく、大正3年の1日平均の乗客数は、わずか197人だったという(森泰樹『杉並風土記 上巻』)。
 一方で、江戸時代の荻窪は、青梅街道筋にあって、御嶽山登山参詣の道としてにぎわっていた。これは天保五年(1834)に刊行された御嶽神社への道中案内書である「御嶽菅笠」にある「荻久保の、中屋の店に酔伏して」との記述からうかがえる。「中屋」の場所は明確ではないが、荻窪には御嶽参詣人を「泥酔」させるような店があったのだろう。荻窪駅が開業して発展するまでは、現在の八丁商店街のあたりこそが、荻窪の中心地だった。
 荻窪駅も、現在とは全く違った様子だったという。
「俺が会社に行きだした昭和30年ころはまだ全部木造だったんじゃないかなぁ」(志村)「昔、荻窪駅は北口が無くてね。南口しかなかったんですよ。北口が出来ても、私らが若いころは、朝早く行く時や夜遅い時はね、(北口は)閉まっちゃっていて、南口にまわるしかなかったんですよ」(井口)
 荻窪駅が開設された当時は、南口だけの平屋建て駅舎だった。開設当初の荻窪駅の雰囲気は、荻窪の古老矢嶋又次氏が描いた「記憶画」によってよくわかる。北口が開設されたのは、昭和2年(1927)の春のこと。マンサード型(牧舎型)の屋根をもつ、モダンな雰囲気の駅舎だった。この駅舎の写真は写真でも残っている。昭和37年(1962)、地下鉄荻窪線(現・東京メトロ丸ノ内線)の開通に伴って、荻窪駅は地下化されることになり、北口駅舎もビルに改築されることになった。
「青梅街道も、昔はもっと細くて曲がっていたよね。」(井口)

「そうそう、昔の青梅街道はね、ずいぶん狭かったんですよ。今の道で一番わかりやすいのはね、今の北口の交番と商店街の間の道があるでしょ?

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N003-6-1024x585.png です荻窪交番前

あれが青梅街道。広くしたのは中島飛行機が出来たからじゃないかな」(松原)
「(中島飛行機は)軍需工場だったから突貫工事だったんだろうね。毎晩資財を運ぶんで、戦車の音が聞こえていたよ」(志村)
 荻窪の古老矢嶋又次氏の著作『荻窪の今昔と商店街之変遷』(1976年)には、当時の青梅街道の写真が掲載されている。なるほど今の青梅街道からは想像もつかない景観である。

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『荻窪の農業』(左表 杉並区立郷土博物館蔵)と矢嶋又次『荻窪の今昔と商店街之変遷』より (右写真)

『荻窪風土記』には、沢庵が荻窪での主要物産だったとある。昭和6年~8年頃、詩人の神戸雄一に土地を貸していた地主は、漬物屋だったという。
では純粋な農村だった荻窪では、何が生産されていたのだろうか。
「この辺で作っていたのは蔬菜類ですね。米はあんまり。大麦は作っていましたね。水田はあんまりなかったからね」(松原)
「米でも陸稲だよね」(井口)
「菜っ葉とかだな。小松菜なんかね。ほうれんそうとか三つ葉とか」(志村)
 昭和35年(1955)に刊行された『杉並区史』をみると、杉並区全体の「蔬菜類作付面積」は、昭和7年では馬鈴薯が167町で全体の中で一番多く、次いで大根が133.8町あった。ところが、昭和15年をピークとして、全体的に作付面積は減少していき、戦後の昭和27年段階では、40町を切るまでになっていることがわかる。
「沢庵も作っていましたよ。だいたい大根を作っていたね」(松原)
「この辺の大根も“練馬大根”って言っていましたよ。漬物は自分のうちでやっていたね。漬物を作る樽もいっぱいあって、その上に乗せる石がね、デカくて丸い、持てないような石が何百ってありましたよ」(井口)
「それの集大成が井草八幡宮に今でもある“力石”ってやつですよ」

「大根を〝矢来″にかけるまえに洗うんですよ。それを小さいころ手伝わされたんだけど、寒い時は水が冷たくてね。手がかじかんじゃった記憶がありますよ」(松原)

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大根干し(清水、昭和10年頃)杉並区立郷土博物館蔵

 昭和初期の荻窪では、いたるところで矢来に大根を干した風景がみられたのだろう。杉並区立郷土博物館所蔵の写真からも、そんな風景がうかがえる。
 荻窪でつくられた農産物は、神田や京橋のほうへ出荷されたという。『荻窪風土記』にも、天沼の長谷川弥次郎さんの話として、大八車で東京の朝市に出荷する話が出てくる。実際に、御3人からもこれと同様なお話をいただいた。
「うちの親父の話でも、ここらへんから京橋に大八車で持っていったって聞いたよ」(志村)
「神田のほうにもっていくんですよ。そしたら青梅街道の鳴子坂のところには、大八車を押す人が必ずいるんです。でもそっちに卸しに行ったらね、二日三日は帰ってこないんですよ(笑)」(井口)
――――帰ってこない?
「鍋屋横丁に飲み屋がいっぱいあってね。それで帰ってこない(笑)。私のおじいさんなんかもそこにひっかかって帰ってこないから、親父が迎えに行っていたって言っていましたよ(笑)」(松原)
 なるほど、納得である。

 関連するかはわからないが、江戸時代の川柳に「新宿に 遊ぶにはこれ 妙法寺」という句がある。江戸の人たちは西の堀ノ内妙法寺に参詣に行く「ついで」に、当時から盛り場だった内藤新宿に遊びに行ったという。江戸時代から、杉並地域の人たちは江戸に野菜を卸していたというから、西の人たちは仕事の「ついで」で遊ぶことを楽しみにしていたのかもしれない。つくづく、人は遊びたがるものである。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N006-1024x585.png です井口清さんと松原安雄さん

昭和初期の子どもたち

 続いて、子どもの頃の遊びの話についてうかがった。
―――虫切り―――
「〝虫切り″をやっていたおじいさんがいましたね。虫切りっていうのは、子どもの疳(かん)の虫を封じるというまじないのことでね。手相のすじをちょんちょんときるんです。そうすると赤ちゃんの夜泣きが治るっていう」(松原)
「虫切りの日っていうのは、日にちがきまっていて、そのおじいさんは立川のほうから電車で来るんです。荻窪駅を降りて、ちょうどうちの前を通るんだけど、子どもを何人もつれて歩いて来るんですよ。あぁ、虫切りの日だっていってね。そのころになると4、50人くらい連れてあるいていましたよ」(井口)
 “虫切り”は“虫封じ”とも言われる疳の虫封じの呪法で、民間信仰(療法)のひとつである。かつては親を悩ませる子どもの夜泣きは、一つの病気であり、体内に宿る虫が子どもの疳を起こすという考えがあり、いろいろな療法が行なわれていたという。
―――木登り―――
「私がいちばん覚えているのは、木登りの記憶ですね。このへんのガキ大将がいてね、木登りをするんですけど、私だけ木に押し上げられてね、それで気がついたら誰もいない(笑)。ワーワー泣きましたよ」(松原)
 子どもがやんちゃなのは今も昔も変わらない。ずいぶんとひどいこともする。
「木登りといえば、柿の木に上って、生っている柿をとってよく食べたよ(笑)」(井口)
「そうそう。でもお母さんに「ダメだよ」って言われるから、下からみえるとこだけ残して上の方だけ食っちゃう(笑)。お母さんは上ってこないからね。下からみたら食べられているってわからない(笑)」(松原)
「あの頃はみんな腹が減っていたから、みんな柿をもっていっちゃうんだよね」(志村)
 とてもユニークなエピソードである。子どもたちもいろいろと考えるのだ。その柿は、結局最後はどうなったのだろう。
「木に登るとね、いまみたいに高いビルがなかったから、富士山とか、秩父の山が綺麗にみえたんですよ。もう全部目の前にみえるような感じでね」(井口)
―――魚獲り―――
「妙正寺の川で魚すくいにもいったね」(井口)
「鮒・ドジョウね。あとは〝赤べったん″。タナゴのことね」(志村)
※森泰樹『杉並の伝説と方言』では、「あかんべえ=たなご」という方言が紹介されている。
「あとは〝えびがに″がいくらでも獲れましたよ。バケツ一杯とかね」(井口)
――えびがに?
「あれはアメリカから来たんじゃなかったかな」(松原)
 どうやらアメリカザリガニのようだ。近年では生態系を崩す〝外来種″として問題視されているが、昔も今も子どもの遊び相手だった。ちなみにアメリカザリガニが日本に輸入されたのは昭和2年(1927)だというが、みなさんの子どもだった昭和10~20年代頃には、既に杉並にもたくさん定着していたのだろう。
「台風の翌日なんかになると田圃が冠水しちゃってね、そこに鮒なんかがいっぱいいたよ。ナマズなんかもいましたね」(志村)
―――動物の思い出―――
「イタチもいたね。物置の下に巣をつくっちゃって。かわいいんだよ。あとはフクロウもいたな。このへんに杉林があって、夕方鳴いているのを聞いたな。」(志村)
「戦後はヘビなんかも多かったですよ。小さいころのある晩に、私一人で八畳の部屋に寝ていたんですね。そしたら夜中に〝ぱたん″って音がするの。で、ふと上をみたら梁(ハリ)の上にヘビがいたの。1メートルくらいあるデカいやつ。昔は囲炉裏を使ってたんでね、囲炉裏の熱で、そこが暖かかったからか居ついちゃっていた」(松原)
―ギョっとするエピソードですね…。
「ヘビなんかはね、とりにいって、焼いて食ったよ(笑)。シマヘビね。あとは高校生くらいのときにね、いたずらでヘビをポケット入れて、女子のとこいってねそっと見せて脅かしたこともあったよ(笑)。まぁ今だったら問題になっているだろうね(笑)」(井口)
「アオダイショウはね、2メートルくらいデカいやつもいたよ。」(松原)
 都市化が進んだ街中では、あまり生き物を見なくなった気がする。かつてはもっと生き物(ペットとして買われたものではない野生の生き物)と共存していたし、子どもたちの遊び相手でもあった。…もっとも、ヘビ嫌いな私としては、2メートルのアオダイショウはごめんではあるが。

戦後直後のくらし

「このへんは芋畑も多くてね。終戦直後はサツマイモを作っていました。「茨城一号」とかいってね、大きいの。そんでね、まずくて食えたもんじゃない(笑)。それを供出に出していましたよ。それでも芋泥棒も多くてね。番小屋をたてて、親父と交代で番をしていました。ある晩、私が先に番をして、家へ帰って寝ていた時に、「来たぞ!」って親父に呼ばれてね。で畑に行って、囲むようにしたんだけど逃げられちゃった。そんなこともありましたよ」(松原)
 終戦直後は治安もあまりよくなかったという。
「このあたり、街路灯が無かったころは、追いはぎが多かった。終戦後。うちにも近所のおじさんが飛び込んできたことがあった。“助けてくれ”って。終戦後は怖くて道が真っ暗で歩けなかったよ」(志村)
「このへんだって街灯なんかなんにもなかったからね」(井口)
――闇市――
「駅の北東方の辺り(現:インテグラルビル付近)はみんな闇市でしたよ」(志村)
「タウンセブンのところもね」(松原)
「そう、バスターミナルのところも全部闇市でしたよ。昭和30~40年ころに火事があってね。それで焼けちゃって変わっていった」(志村)
 戦後復興から高度経済成長のなかで、荻窪駅周辺の様子は劇的に変わっていく。それは戦後の苦しい時代を、必死で生きていった人々の記録でもある。
「タウンセブンとかあるところは、ついこの前まで木造のマーケットだったからね」(井口)

 現在では荻窪のまちを象徴するデパートでもあるタウンセブンビルは、荻窪新興商店街周辺の再開発として、昭和56年(1981)の9月に完成している。こうして荻窪は東京屈指の人気のまちになっていくのである。

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『杉並区史』より

お話をうかがって

 昭和初期、荻窪は純粋な農村風景だった。そこから約一世紀をかけて、荻窪駅とその駅前の風景は、劇的に変わっていった。今の風景からは考えられない“風景”を、お話から見ることが出来た。
 杉並区の人口は、現在では56万人を超えている。それも、戦後から高度経済成長期にかけて、急激なカーブを描いて人口が増えているのである。今まちに住む多くの人は、風景が劇的に変わった後に、荻窪の外から移り住んできた人たちである。ひと昔前の荻窪の風景を知る人は、少なくなってきている。

かつて、こんな風景が荻窪にはあったのだ。お話をこうして残すことで、少しでもその風景を残すことが出来れば良い。

文:駒見敬祐 写真:窪田幸子
資料提供:杉並区立郷土博物館

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『オンギ』、ホットする味、韓国小皿料理

西荻春秋記事 ー『オンギ』、ホットする味、韓国小皿料理

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 西荻窪駅南口を出て、左手の線路沿いの平和通りを荻窪方向に5分ほど歩いて行くと『韓国小皿料理オンギ』に着く。韓国料理イコール焼肉と思って、そんなイメージの店構えを想像していくと通り過ぎてしまうかもしれない。ガラス張りのなかが見える店はおしゃれな喫茶店といった感じだ。ローマ字でOnggiと書かれたドアを開けて中に入ると、「いらっしゃいませ」と笑顔の素敵なキム ユナさんが迎えてくれる。彼女が一人で切り盛りしている店内は、5,6人が座れるカウンター席と4人掛けのテーブル席が一つのこじんまりした、落ち着ける雰囲気。

―――早速、店名の『オンギ』の意味を聞いた。
「オンギは焼き物で壺とか甕の意味ですけど、日本で瀬戸焼とかなんとか焼きというのと同じで、焼き物のオンギ焼きですね。工芸品もありますし、キムチとかの発酵食品を容れたり醤油漬けに使ったりして、毎日の生活で普通に使っている壺ですね。韓国で料理を作るとき普通に使われている道具ですので、ま、そのイメージが、普通の家庭で食べるような、おかずのような料理を出すお店のイメージにつながるかな、と思ってオンギと付けたんですね」。

 韓国で日常的に食べている料理を提供するお店ということで、さらに、韓国小皿料理と前にも付けて『オンギ』としたわけだ。あらためて扉に書かれた店名や頂戴した名刺を見ると、Oの字の中には壺の絵がデザインされていた。お店にお客できていた韓国出身の人が、この絵を一目見て、韓国料理の店だと分かった、と言うぐらいで、故郷のシンボルのような存在なのだろう。

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―――韓国料理というといろいろあると思いますが、なぜ小皿料理なんですか?
「あの-、韓国では家でも外でも、食べるとき、品数を多めに出すんですね。見た目ちょっと贅沢でないともてなした感じがしないんです。日本に来て一番違うなと感じたのが、品数が少ないな、ということでした。でも、お店で多く出したら一人で食べきれないし、お酒も飲めなくなるでしょう。一人で色々食べられる方がいいと思って…」とほほ笑む。

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―――お店のメニューにはキムさんの出身地の影響があるんですか?
「いま出しているのは韓国の一般的なものですね」。メニューにはサラダ、キムチ&和え物、ナムル、韓国漬物、一品料理、チヂミ、と並ぶが、ごはん物がない。お酒を飲むときの肴になるものがメインだ。
「ごはんをやると定食屋みたいになっちゃうし、私一人ではできないですね。夏に冷麺はやりますけど。でも、常連さんで、よそで買ったものを持ってきて、今日、これでお願いと、裏メニューみたいだけど、頼まれて作ることがありますよ」と笑いながら話す。

 お気に入りの料理を紹介すると、まずチヂミ。海鮮、じゃがいも、にら、エリンギなど7、8種類ある。「何でも衣をつけて焼けばチヂミですね」とキムさんが解説してくれる。焼きたての衣はふんわり、中身のレンコンは軽くサクッとしながらしっとりとジューシーで柔らかい。焼き過ぎの焦げめもなく、さっぱりしたタレをつけて食べると、パクパクっとお腹に収まってしまう。皮付きニンニク丸ごとの漬物もびっくりするが、なかなかにオツだ。チョレギサラダ、ナムルも美味しい。一品一品は小皿に手ごろな量でだされる。どれも味がよく選ぶのに迷ってしまうほどで、これがまた楽しい。

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「お客さんはほとんどが日本人ですね。ここに来る韓国人のお客さんはたいてい私の友達、忙しくなると手伝ってくれたりして」と言って大笑い。店内は落ち着いていて、明るく、かつての“おじさんたちの呑み屋”ではない。一人住まいで家では料理をしない人も、この店の家庭的な匂いとキムさんのもてなしに、自分を取り戻しほっとするのではないだろうか。
 店が混んできても、客の注文を忘れたり、間違えたりすることもなく、料理を用意しながら何人もの客と話が弾む。話題は政治の話やら日韓文化の比較の話、硬軟取り混ぜて何でも来いという風で、知的な会話も楽しめる。カウンターに座って黙って呑んでいても、いつの間にか話に引きずり込まれてしまうに違いない。キムさん、一度来たお客さんの顔は忘れないそうだ。

「まあ、プロですからね。それに顔を覚えると喜んでもらえるし…。でも、名前を覚えるのは大変。日本人の名前は韓国人より長いから」とにっこり。キムさんの話す日本語は、私たちが話すのと変わりがないくらいに上手だ。

―――きれいな日本語ですけど、どこで勉強されたんですか?
「来日する前にひらがなとカタカナぐらいは覚えてきましたけど、日本で日本語学校に2年間通って勉強しました。嬉しいね、ほめられて」と今度は照れ笑い。

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―――キムさんご自身のことを少しお聞きしますが、日本に来られたきっかけは?
「最初ワーキング・ホリデーで2007年に来たんですよ。ちょっと1年ぐらいいて、日本の生活を経験して少し言葉を覚えたら帰ろうと思っていたんですけれども、楽しくなっちゃって留学することにして日本語学校に通ったんです。楽しくなったのは、私の故郷はプサンですけど、そこから離れているからなのか、ちょっと自由な気がして、うまく説明できないけどそういう感じが自分は好きだったんです。東京はグルメ天国じゃないですか。いろんな国の人が集まっていて、それぞれの国の料理が楽しめる。そこからいろいろな異文化が体験できる、というのも楽しかった。私は食べることも好きだし、作ることも好きですね。それで、日本語学校の後、料理の専門学校に行きました。」

「子供のころから料理は好きだった、ってゆうか、よく手伝わされたんですね。うちは大家族だったんです。父が長男なので兄弟が一緒だったりで、食事の準備は大変だった。一番多かったときは8人ぐらいいたんじゃないかと思います。それに普段の食事だけでなく、日本でいう法事?、先祖の命日だとかお盆、それに旧正月とか、とにかく年に何回も特別な料理を用意しなければならなかったんですね」。

―――それで料理の腕を上げたんですね。特別な料理というのは地方色豊かな伝統料理なんですか?
「法事で出す料理は大体決まってるんですね。日本のおせちみたいに何が入らなきゃいけないとか、そういうのが決まっているんです。そこにはニンニクを使ってはいけないとか、唐辛子は使っちゃいけないとかっていうように……」。

―――唐辛子なんか何にでも使われているように思っていましたけど?

「昔のキムチは白かったんですけれども、日本から唐辛子が入ってきて使うようになったんです。ですから昔のキムチは辛くなかったと思いますよ」。

―――キムチの地域による違いはどういうものなんですか?

「地方によっても家庭によっても味は違うので、一言でいうのは難しいんですが、プサンだと海のそばなので、ふつうは魚の塩辛を使うことが多いんですけど、魚を丸ごと入れて漬けるのもありますね。発酵すると骨まで食べられるんです。ソウルでは魚は貴重だからイカの塩辛なんかを使う。昔は冷蔵庫がなかったから保存食には塩を多く使ったけど、今はキムチ用の冷蔵庫まであったりするので、だいぶ塩気はなくなりましたね。醤油漬けとかみそ漬けもありますよ」。

―――どうして西荻にお店を出すことにしたのですか?

「1年ほど物件を探しました。神楽坂や飯田橋辺りで物色したりしたんですが、なかなかいい情報がこない。それで探す範囲を中央線沿線まで広げたら、このお店が見つかったんですね。ここは一目ぼれでした。これはいいなという感触でした。前のお店も食べ物屋さんだったということで、すぐ借りることができました。

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 西荻の街の落ち着いている雰囲気も気に入りました。日本に来て十年になりますけど、大久保とか高田馬場に住んでいたころは日本にいるという感覚を持つことがあまりなかった。でもここにいると、お客さんもいろんな職業の人がいて、そういう人たちとつながりができていくじゃないですか。日本人の中にやっと入れたという感じがして、これが日本での生活かなという実感がわきますね。」

―――開店して一年、これからの希望とか将来への夢を聞かせて下さい。
「女性のお客さんがもっと増えてほしいな、という願いはあります。そうなれば、ここでキムチの漬け方とか、料理教室をやれるんですけれども。ま、ちょっと大げさですけど、韓国文化の発信をしていく、料理も文化の一つですから、料理でできることをやっていきたいと思っています。宮廷料理や焼肉料理、辛い味つけだけが韓国料理じゃなくて、わたしが創ってここで出している小皿料理も韓国料理なんだと、知ってほしいですね。」

 西荻にまたいいお店ができたなと、強く印象に残りました。女性の方、一人でも気楽に入れますし、食べて、飲んで、料理の話など楽しんでください。常連さんが増えることを願っています。食を通じて韓国文化の発信をしたいというキムさん、これからのご活躍が楽しみです。

韓国小皿料理 Onggi(オンギ)
東京都杉並区西荻南3ー19ー13
TEL 03−6883−3268
営業時間 17:00ー23:00

日曜定休

文:鈴木英明、窪田幸子 写真:澤田末吉

取材日 2017年6月28日

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『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

西荻春秋記事 『喜久屋』、上野山圭祐さん、頑張れ

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 フードショップ『喜久屋』は、昭和20年(1945年)の開店当初から南口の『こけし屋』、北口の『喜久屋』と西荻人から親しまれ、戦争で荒廃した社会をハイカラにする牽引役を果たしてきた。最近、その『喜久屋』の向かいにある北口駅ナカに同業大手『紀ノ国屋』が参入してきた。
『紀ノ国屋』は、明治43年(1910年)に青山で果物商としてスタート、昭和28年(1953年)、それまでのザルで代金のやり取りをする「留め銭」と呼ばれた手法から、レジスターで精算する新しい買い物スタイルを導入、日本初のセルフサービス・スーパーマーケットを青山に開店した。その後、パン食を始めとして、これまで日本にはなかった舶来食品の販売に力を注いだ。

 取り扱い品目は、まさに『喜久屋』と競合する。会社規模や資金面からすると敵う相手ではない。これまで大黒柱として店を切り盛りしてきた代表取締役の上野山圭祐さんも高齢になり、『喜久屋』にピンチが訪れた。

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顧客と寄り添う『喜久屋』の存在

 圭祐さんは、横浜市鶴見区の出身、戦時中は縁故疎開で信州に暮らした。帰京後、叔父が経営する阿佐ヶ谷の書店を手伝いながら松の木中学の一期生として学校に通った。ちょうどその店の隣にあった食料品店『喜久屋』を経営していた吉田清蔵さんの目に誠実に働く圭祐さんの姿がとまり、西荻の『喜久屋』への就職が決まった。

『喜久屋』社長の上野山喜吉さんは、戦後復員して故郷和歌山からみかんを当時神田にあった市場に卸していた。その他にも西荻窪でパチンコ店、映画館、証券会社など、手広い事業を展開するする経営者だった。圭祐さんは、そんな喜吉さんの下で働くことになった。

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 ここでも彼の誠心誠意の姿勢は変わらず、喜吉さんに気に入られ上野山家の娘婿として迎えられ、新たな店を任されるようになった。どのような店にするかの構想を練るため、青山の『紀ノ国屋』、銀座の『明治屋』、新宿の『高野』などを参考に見て回り、商品の種類、並べ方、接客の仕方など、商売の基本を勉強した。

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 しかし、何分戦後で物資の乏しい時代なので店に並べる商品がない。配給された小麦粉を集めてパン屋で製パンしてもらい、その工賃を貰って舶来の缶詰を購入、北海道から乾燥した数の子を求めるなどして少しずつではあるが商品が店頭に並ぶようになった。時の経過と共に品揃えも充実し、西荻という土地柄を生かして、いち早くウイスキー販売の許可を取得、舶来ウイスキーの販売を始めた。
「家庭の食卓をどのように演出するかを想像し、それに適したお酒、料理、食材をそろえるようにした」と圭祐さんは語る。そして、顧客との会話に耳を傾け、バター、チーズ、オイル、調味料、缶詰、ワイン、日本酒、ウイスキー、コーヒー、パスタ、菓子や材料など、ニーズに応えるよう努めた。
 関東では珍しい関西や東北の菓子なども店に並べた。今では入手が難しい伝統的な商品や家内工業的に作られた手作り菓子も扱った。日本の古き良き文化を大切にしたいという思いからであった。今でも店内で金花糖の販売は人気の的だ。金花糖(きんかとう)は、煮溶かした砂糖を型に流し込み、冷やして固め、それに食紅で彩色した砂糖菓子である。江戸時代に南蛮菓子を真似て作られたものとされ、結婚式の引き出物や節句祝いなどに用いられる菓子である。
 まずは顧客の声を大切に聞き入れ、品揃えをする。そして、すぐに商品を調達するフットワークの良さこそが『喜久屋』の真骨頂である。東京には地方からやって来た人が大勢住んでいる。そういう人達から「『喜久屋』に行くとこういう物が在る」との口伝えによって店は発展してきた。
 インターネットブログで「クリーミーでまろやかなブルーリボン付ビン入りマヨネーズをもう何十年も愛用していますが、今でも一番おいしいマヨネーズだと思っています。このマヨネーズだけは『喜久屋さん』で購入したい」というこだわを持った熱烈なファンが『喜久屋』にはいる。昭和に生きた人々の思い出に寄り添いながら歩んだ『喜久屋』が浮かび上がる。

商店街の圭祐さん

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 上野山さんは『喜久屋』だけではなく、西荻窪商店街青年部も立ち上げた。
『駅前盆踊り大会』や『大売出し』など、いろいろな企画を立案した。なかでも有名なのが『ハロー西荻』、毎年5月に行われる西荻の名物イベント、街中で音楽ライブやパフォーマンスが行われ、ウォーキングやスタンプラリーの抽選会で豪華な景品が当たることでも知られる。圭祐さんは、この『ハロー西荻』の名づけ親でもある。
 圭祐さんの功績は、それだけに留まらない。彼は消防団員としても活躍、こんな地域への熱意に信頼を寄せる近隣の私立保育園など50か所から、「昼食などの素材を配達して欲しい」との注文が相次ぎ、長い間続けてきた圭祐さんだったが、高齢であるのと人手不足もあって、最近は同業者にその仕事を分配するなどして数を減らしている。
 従業員には上野山さん自身が率先して手本を見せ、無言のうちに後姿で仕事を教える。まるで親子のような関係だ。従業員は「尊敬しています」と話す。
 圭祐さんは「西荻窪は生活環境としては、とても素晴らしい場所。でも、商売には厳しいところもある。そんな立地だからこそ、お客様との対話を楽しんで大事にすることが私個人にとっても街全体にとっても重要なことだと思います」と語る。若い頃、参考にした『紀ノ国屋』が駅前に参入してきた。「時代の流れはどうしようもない」圭祐さんの表情は達観していた。

「お客さんが何を考えているのかを見極め、欲している商品を揃えていく。お客さんとの人間関係を築くことが個人経営で最も大切な要素です。商品の中身についても積極的に会話して商品研究をしなければいけません」と説く。圭祐さんは82歳になった今も現役、住んでみたい町西荻窪を支える原動力として欠かせぬ存在だ。西荻窪の文化を消さないために。頑張れ、『喜久屋』、上野山圭祐さん。

文:澤田末吉 写真:奥村森

参考資料:紀ノ国屋ホームページ

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「西荻春秋」から見える「すぎなみ学倶楽部」の魅力

西荻春秋記事『「西荻春秋」から見える「すぎなみ学倶楽部」の魅力』

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N001-産業振興センターから望む杉並風景-1.png です

 区民が録音機とiPhoneやカメラを携え、杉並の魅力を取材してウエブサイトに発信する活動。その媒体名を「すぎなみ学倶楽部」と呼ぶ。
 カテゴリーを「歴史、ゆかりの人々、スポーツ、産業&商業、食、文化&雑学、自然、特集、まち別検索、写真検索」に分類して掲載している。
 杉並区には、自治体、企業、団体、個人など、数多くのウエブサイトが存在する。商店や住民などに「あなたが知っている杉並のウエブサイトは(西荻春秋調査)」と質問すると、「すぎなみ学倶楽部」は圧倒的知名度を誇る。区が運営するウエブサイトだからだろうか。2016年に10周年を迎え、掲載記事は合計1000件を越えた。イベント活動など掲載から3年経過し、取材当時から内容が異なっていると判断した記事を3年前に30%削除して、現在、我々が目に出来る記事は1050~1060件になった。

目的と組織

 国は、地域参加を推し進める方針を発表した。団塊世代が退職して自宅に引きこもる現実、グローバル化や貧困、教師が手一杯な状況など、複雑化する地域の課題を人材の育成と活用で地域民みずからが解消する目的で考案された。
 その方針を受け、平成17年度に杉並区は、区民が好意度と愛着度、そして誇りを持って住み続けたい地域と思える町にしようと、杉並の魅力を内外に発信する「杉並輝き度向上」計画の取り組みを始めた。
 平成18年4月、「すぎなみ学倶楽部」は、その施策のひとつとして設置された。当初は、現在の杉並区協働推進課の前身であるすぎなみ地域大学担当課が担った。さまざまな杉並の魅力ある情報を、区民や他の地域に暮らす人々と共有し、発信することを目的とした、区が運営する区民参加型ウエブサイトである。
 元々は、杉並区役所区民生活部に協働推進課と産業振興課があった。協働推進課から事務事業が産業振興課に移管され、その産業振興課が本庁舎から荻窪に移転して産業振興センターとなった。「すぎなみ学倶楽部」は、観光的な要素も含まれるとの考えで、協働推進課から現在の産業振興センター観光係が担当することになった。
 杉並区産業振興センター・観光係は、「すぎなみ学倶楽部」運営などの事務を特別非営利活動法人TFF(チューニング・フォー・ザ・フューチャー/代表 手塚佳代子氏)と委託業務契約を結んでいる。その中には「区民ライターとの連絡調整」の一項も含まれている。
 観光係は、2か月に1回TFFと定例会議を開き、ウエブページの記事進行状況やアクセス状況の解析などについて討議する。そこでは、同分野が重複しないバランスのよい記事構成について、「クリック数、ページビュー、滞在時間」などの評価をどのように向上させるか、クレーム対策など、広範な内容が議題となる。
 観光係の近藤係長は「手塚さんは、『すぎなみ学倶楽部』の目的を理解するプロフェッショナル。他の自治体から、『区民参加型の公式ウエブサイト発信システム』を評価して視察の申し出もあるほどだ」と信頼を寄せる。
 ちなみに手塚さんは、制作会社に勤務した経験を生かし、人と情報をコーディネートするプロジェクトマネージャーである。TFF理事に加え、杉並区郷土博物館の運営委員も務めている。博物館からの報告を承認し、意見する役割を担う仕事だという。
過去と現在の記事を比較すると、当初の『すぎなみ学倶楽部』は、どちらかと言えば硬い表現が多く、長文記事が主流だったと記憶する。手塚さん率いるTFFが担当してからは、写真を大きく文章を少なくして読み物からインスタグラム風に転換したような印象を受ける。
 近藤係長は「ウエブサイトをどうしたらよいのか、区民ライターの記事を受け入れるだけではなく、ウエブサイトは多くの人に見られなければ意味がない。楽しい方向に成長したのではないか」と振り返る。

原稿づくりの現場

 区民ライターの目線で選んだ取材先を、TFFが整理して観光係に示す。近藤係長は、「読ませる記事ばかりでも嫌になる、写真ばかりでも物足りない、トータルバランスでよいウエブサイトを作ることを念頭に選択している」と語る。
 しかし、『ラーメン』をテーマにした情報、『ゆるキャラ』が伝える人気の『なみすけブログ』、『例大祭』日程などの情報、『貞明皇后 大河原家』や『中島飛行機』などの歴史記録、このような内容は注目度が高いので連載することもある。
 掲載テーマの方針が了承されると、いよいよ取材依頼に移る。区民ライターが先方に声を掛けるのが通例だが、観光係やTFFから連絡することもある。
 杉並区のウエブサイトなので一般人は勿論のこと、『時の人』や『著名人』も取材に快く応じてくれることが多い。元ボクシング世界チャンピオンの具志堅用高氏も快諾してくれたひとりだという。
 公共サイトなので、原稿が特定の内容や団体に偏らないような配慮が必要だろう。また、歴史認識や思い込み記事は、異なる見解があり、事実を曲げる可能性もあるので神経を使わざるを得ない。
 また、「すぎなみ学倶楽部」にはウエブサイト多言語版(英語、韓国語、中国語)もあるので、TFFでは、翻訳しやすい文章にするため、マニュアルに基づいた指導を行っているとのことだ。
「すぎなみ学倶楽部」を開始して2~3年は、研究者たちがライターとなり、自らの責任の下で自由に原稿を作成した時代もあったと聞く。観光係やTFFの人々は何も語らないが、ブログ発行元である杉並区にもクレームが及んだに違いない。その防衛手段として、いろいろな管理基準を設けたのだろうか。

 TFFスタッフは、経験の浅い人、不慣れな人、緊張して上手く出来ない人、ルール違反する人などには、取材が終了してからでは間に合わない場合もある。手塚さん自らインタビューに同行することもあるという。

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 取材当時、観光係だった江崎(えさき)さんと出雲谷(いづもたに)さんも現場を訪れることがある。そして、TFFから届いた原稿を校正する。区の公式情報サイトなので、誰が読んでも解りやすい文章にすることを重視、また、余りに難しい言葉や漢字だと修正を入れることもある。
 このように重なる修正が入ると誤字脱字や誤認は解消されるが、統制された環境の中で個性がどれだけ発揮出来るのか、ライターのやる気を最後まで持続させられるのか、それが大きな課題となる。
「すぎなみ学倶楽部」に8年間関わり、これまで約40本の原稿を書き上げたベテラン区民ライター、中谷明子さんに訊ねてみた。
「私は、『すぎなみ学倶楽部』を情報サイトだと認識している。だから食の取材で『美味しい』ではなく『風味が豊か』と書く。『美味しい』という個人の気もちは、読者の気もちではないと考えるから」
 運営者よりも規制を遵守する意識が強いではないか。関わる人たちが一体となり、ルールを守る姿が印象的だった。
 更に、取材には高度な知識が必要だ。職人、芸術家、学者など、専門分野の話題を理解できなければ取材自体が成り立たない。手塚さんは「専門家の取材は、仕事についてインタビューするのではなく、杉並で何をしているかに主眼を置いている。大雑把に見て素人が理解できる範囲でよいと思っている。取材対象者に手間をかけた分、地域情報のプロである我々は、情報提供をしてお返しをするよう心掛けている」と言う。
 我々の「西荻春秋」の場合には、ボランティア活動とは言え、適材適所の人材をインタビュアーとして採用するか、適任者がいない場合は、時間をかけて勉強してから訪ねることにしている。
「すぎなみ学倶楽部」は、「区民ライターによる取材」が絶対条件だから致し方ない着地点なのだろう。

写真撮影の現場

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 写真撮影技術も取材には欠かせないスキルである。「西荻春秋」のカメラマンのキャリアは、約10年~40年以上のベテラン。それでも厳密に言えば満足な結果が得られるのは稀である。
 写真は、『思考、感性、技術』それぞれの要素が満たされて作品となる。『思考』とは撮影対象を学んで自分の撮影目的を決定する能力、『感性』とは自身の生まれ育った環境から構築される美意識、『技術』は撮影機材の取り扱いやライティング技術のことである。
 通常、専門学校では、これらの技術を2~4年かけて教育する。プロカメラマンレベルともなれば、学びきれないほどの奥深さがある。最近はデジタルカメラが普及して、誰もが簡単に写真を撮れる時代になった。しかし、それは写すだけのスナップで写真とはいえない。
 一般人のほとんどは、マニュアル撮影も可能なカメラではなく、全自動カメラやiPhoneで撮影している。ライティング技術に至っては、まったく考えもしないだろう。「すぎなみ学倶楽部」では、年に2~3回、カメラ講座を開催していると聞く。
 手塚さんは具体的な指示を出すこともあるようだ。それはやむを得ぬ究極手段だと思う。
 これら現場の状況から、区民参加型ライターの育成と対応の難しさが見えてくる。プロであれば未熟な者は、即クビにすることが可能だ。しかし、区民ライターのやる気をなくさないようにしながら、掲載可能レベルに達するまで補助しなければならないからだ。編集を担当する人達の苦労は相当なものであろうと推測する。

著作権管理

 著作権法は知的財産権のひとつで、著作権の範囲と内容について定める法律である。これまで知的財産に関して日本人は寛容だった。もめ事を嫌い、人間関係を維持するために、お茶を濁す日本人気質がそうさせていたのかも知れないが、知的財産権に関する認識の希薄さもあったように思われる。
 グローバル化が進むにつれ、誰もが権利を主張するようになった。日本特有の玉虫色の時代は終焉に向かっている。しかし、お茶を濁す意識は、変わらない、いや、変えたくない人も多いだろう。玉虫色は、ズルサもあるが優しさも含まれているからだ。著作活動では、その曖昧な気もちが著作権法に抵触する可能性もはらんでいる。
 最近は、ほとんどの人がコンピュータで原稿を仕上げる。情報入手もインターネットで簡単に取得でき、長文でもコピーは簡単だ。「コピペ」という言葉が定着するほど普及度は増している。
 現在、新聞や雑誌などの記事でも「コピペ」を数多く発見する。私事で恐縮だが、自分の著書が漫画本として無許可で使われる被害を受けた。原本を書いた者には、すぐに盗作だとわかる。著作権法違反として訴訟を起こすか否かの判断を迫られる。訴訟も地獄、黙っているのも悔しい、どちらを取っても嫌な気分になるのは避けられない。
 観光係の出雲谷さんは「著作権法などの配慮から記事に使う資料の出所は明確にしなくてはならないが、文章の読みやすさを大切にするため、挿入する場所に気を使って対処している」と語る。著作権講座も折々開催しているようだが、「コピペ」は、書いた本人にしかわからない。事実確認するのは相当難しい。これを実行する「すぎなみ学倶楽部」には、ただただ脱帽するばかりである。

「すぎなみ学倶楽部」在っての「西荻春秋」

 以前、私は「すぎなみ学倶楽部」のインタビューを受けたことがあった。それまで当サイトの名前も知らなかった。また、「西荻春秋」メンバーのひとり、窪田幸子さんも取材を受け、「すぎなみ学倶楽部」に強い関心を抱くようになった。
 私は、杉並を対象にしたドキュメンタリーブログ「西荻春秋」の編集を担当している。主なメンバーは、カメラマンやライターや学芸員を専門職とする人々、更には、それに準ずる人たちである。
 編集で難しいのは、仕事よりも人間関係である。取材先の快諾を得ても、実際にブログに掲載できるのは70%。
「西荻春秋」には決まりがある。ボランティア活動なので、取材先と記者が納得できる内容になるまで話し合い、調整が困難な場合は掲載を断念するというものだ。
 互いの意志を尊重して、どちらを選択してもよい関係を保とうと努めているが、そうそう綺麗事では収まらない。明らかに発言しているのに記事の消去を要求、更には記者の感想にまで口出しする取材先もある。
 一方、ライターは誤字脱字の校正は素直に受け入れるが、長年培ってきた人生観に触れると気分を害することもある。ある日、役所で定年退職した男性が「西荻春秋」に参加した。原稿を読むと全てインターネットからのコピー、しかも著作権を心配したのか、それぞれに転載先が記されている。まるで会議用の調査資料である。
 原稿としては成り立たず却下したが、これまで彼の人生で大切にしてきた「自分を露わにしない」という信念に触れてしまったようだ。可哀想に思えるが、怒りを収めることは出来なかった。以来、取材に慣れたプロフェッショナル、それに準ずる人材とメンバーを組むことにした。
「すぎなみ学倶楽部」は、膨大な記事をどのようにこなしているのだろう。人格の異なる区民ライターとどう向き合っているのだろう。そんな思いが何時しか好奇心に変わり、取材をお願いすることになった。
 取材を終え、気づいたことがある。「すぎなみ学倶楽部」は報道媒体ではなく、情報を媒介として杉並区と区民のコミュニケーションを構築する媒体なのだと。また、アクセス数が多いのは、単に区の看板で情報を発信しているからではなく、公共サイトでありながら世間の流行にとても敏感、考え方も柔軟でフットワークもよいから達成出来たのだと思う。
 杉並には「すぎなみ学倶楽部」を代表として、民族学的研究プロジェクトで上智大学社会学教授、ファーラ―・ジェームス氏が主宰する「西荻町学」、西荻窪の小さな情報を伝える「西荻丼」など、多数の優れたウエブサイトが存在する。それぞれが異なる目的とスタイルで情報発信している。
 私たちの「西荻春秋」は、昭和時代に脚光を浴びたドキュメンタリー・グラフ誌のブログ版と位置付けている。ブログとしては長文で事実を検証した上で、著者の意見を伝えることに主眼を置いている。写真は場面をイメージさせるツールと考え、一枚一カットを大切に撮影し、時間を惜しまず丁寧に仕上げている。

「すぎなみ学倶楽部」と「西荻春秋」は価値観が真逆のウエブサイトである。しかし、「すぎなみ学倶楽部」の存在あって、われらブログの確固たる道筋を確認できた気もする。互いに切磋琢磨して成長して行きたい。

文:奥村森 写真:澤田末吉

取材日 2016年10月25日

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金田一秀穂先生の西荻今昔

西荻春秋記事 「金田一秀穂先生の西荻今昔」

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 松庵生まれの国語学者金田一先生に西荻窪についてお話を伺うことにした。わざわざ松庵舎にお出で頂けるということなので、待ち合わせはJR西荻窪駅の改札口となった。失礼のないようにと約束の時間より早めに着いた私たちの前に、先生はすぐに現れた。先生は「アリャ」と思われたそうだが、もちろん早く来てよかった、と安心している私たちが気付くわけはない。早速、松庵舎に向かった。途中の道は先生が子供時代に駆け回った場所だ。
 住宅街を歩いていると、「この付近には大きな家があったけどみな小さな家に分けられちゃったなー。この近くに大きな桜の木があったんですけど、どうなったんですかね?」、と聞かれて、落ち葉や虫の手入れが大変で伐採されてしまった、と言う私たちの返事に残念そうだった。歩きながらいろんなことが思い出されるようだった。先生がひときわ懐かしそうにみえたのは、松庵舎の玄関前で五日市街道を挟んだ斜め向かいの三軒長屋を見た時だった。「あそこに竹屋さんがあって、本木さんというお店だったけど、文房具も売ってたんですよ。よく買いに行ったな」。お気に入りのお店だったそうだ。今は建物だけが残る。この近くにはもう一軒、松庵堂という文具屋さんもあったが、今はそこもない。

松庵と自転車

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 先生は昭和28(1953)年5月の生まれ。同35年に松庵小学校に入学した。中学は西宮中学校。この小学校の校歌が父上の春彦先生の作詞だそうで、この校歌ができるまでの興味深い話をお姉さんの美奈子さんが、同小学校の同窓会で話されているので関心のある方はこちらのサイトを見て下さい。

http://shouanshou-dousoukai.sblo.jp/s/article/170184036.html

「小学2年生、3年生のとき入院していたことがあって、健康な子供ではなかったけれども自転車で駆けずり回っていました。よその畑を通り抜けても誰に文句を言われるわけでもなく、のんびりしてましたね。自動車も危ないことなくて、道が舗装されていないから土ぼこりがすごかった。それが、ある日五日市街道が舗装されてびっくりして、家の前まで舗装されて愕然とした」。

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「隣の家が辻さんち(現在の一欅庵)で、うちと庭続きだったからよく遊びに行ったけど、そこの大きな防空壕で遊んで怒られたことがあった。危ないから大人は止めるでしょうけど……。そういえば中央線が土手の上を走っていたころ、線路にくぎを置いて叱られたこともありましたね。まさか電車が止まるとは思ってもいなかった」。そのころ、防空壕に入って探検ごっこをしたり、線路にくぎを置いたりする遊びはスリルがあって、子供たちの好きな遊びだった。恐ければ恐いほど思い出は鮮明だ。
「小学校の通学区域のそとにいくことは恐かったですね。武蔵野市との境の道は越えることはほとんどなかったです。心理的なバリアーみたいなのがあったのかな。ですから神社の縁日でも松庵稲荷神社はいったけれども、春日神社はちょっと遠いし、区域外の吉祥寺の武蔵野八幡宮にはいかなかった。久我山にもあったけど何か違う、怖いところでしたよ。不良がいてお金を取られるようなね。そういう危ないところでした。中央線の線路の向こうにあった薄気味の悪い道、知ってるでしょう?」。突然聞かれた。初めは聞いている私たちの誰も、どの道のことかわからなかった。

薄気味の悪い道と沼

「線路の向こうでさ、行き止まりの道でそこがロータリーになってるの。ただの路地なんだけど子供心にわけのわかんないみちで、誰かの屋敷跡かもしれないけど、幽霊が出そうな感じで気味悪かった。今のうち写真撮っておいた方がいいよ。なくなっちゃうよ」、と言われて翌日、現場に出かけてみた。確かに子供だったらそんな感じの道ではあった。ここは松庵小学校の通学区域の北の端になるところでもある。念のため法務局で調べてみると、ロータリーの歴史は詳しくはわからなかったが、明治後期、松庵村の農家であった窪田太左衛門が畑の一部を姉の夫に譲ったものだとわかった。お勧めに従って写真は撮っておいた。

 昭和30年代は屋敷跡ばかりでなく空き地や原っぱ、池などがあちこちにあって、子供たちの格好の遊び場だった。「池といえば、この道の近くだけど、吉祥女子高に行く途中に得体のしれない沼があったの。自然に湧いている池かどうかわからないけど。荻窪辺りは湧水が多くて、よそと違って水がおいしいといわれるんだよね。裏手に大きな池のあるお寺もあったんだけど、この間Google Earthで見てみたけど分かんなかったな」。この沼は現在の地図には載っていないので、杉並区立郷土博物館で調べると『杉並の川と橋』(研究紀要別冊、同博物館発行)に収められている論文「杉並の川と水源」(久保田恵政著)に次のように書かれていた。「鉄道施設用土採取跡地の池は、高円寺、阿佐ヶ谷の他に、西荻窪駅の西に線路を挟んで二ヵ所あった」。そのひとつが松庵窪(女窪)で場所が西荻北3-9と記されていて、先生の話している辺りになる。これは地元の昔をよく知る人で、甲武鉄道(現中央線)を走らせる土手を作るのに、必要な土砂を採った後のくぼみに水が溜まった池だ、と話す人もいて、おそらく湧き水ではないのだろう。

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松庵窪(女窪)付近から線路に向かって下っている坂と本田東公園

 ただ、現地に行ってみると、この辺りが吉祥寺方向に下がっていて、ここよりさらに低くなっている場所を見つけることができる。線路沿いの北側にある本田東公園だ。杉並区と武蔵野市との境界の道をあいだにして市側にある。ここが、雨が降るとよく水が溜まり、池のようだったという地元の人の話があって、あるいはこちらが「得体のしれない沼」だったのかもしれない。

恐い事件と懐かしい店々

「怖い話だけど、松庵稲荷のそばの交番でお巡りさんがナタか斧で殺されるという事件があったんですよ。犯人が捕まらなかった」。これも調べてみると、昭和41年7月27日未明の事件で、27日付の読売新聞朝刊に「交番の巡査殺さる」という5段見出しの記事で第一報が、同日の夕刊で詳細が報じられている。その交番は今はない。先生が13歳の少年の時になる。
 なにやら漫画の『金田一少年の事件簿』みたいな話題になったところで、金田一姓の読み方について耕助探偵にも登場してもらう。いまでこそ金田一姓はほとんどの人が正しく「キンダイチ」と読めるだろう。しかし昔はそうでなかったと、春彦先生は嘆かれていて、「戦後は、金田一耕助探偵のはでな活躍で、キンダイチという苗字をはじめから読んで下さる方がふえたのはありがたいことで、作者の横溝正史さんに千金を積んでも感謝したい気持である」、と『出会いさまざま』(金田一春彦著作集第12巻)に書かれている。余談でした。
「仲通りに、駅へ行く左側に豆腐屋さんがあって、向かいがこんにゃく屋さんでした。いつごろか、豆腐屋さんが火事を出して、それが生まれて初めて見た火事でしたね。梅村質店の子が同級生でした。そばにある床屋の佐藤さんで、雑誌『少年』の鉄人28号や鉄腕アトム、ストップ兄ちゃんなどの漫画を読んだりしてました」。
「昔のことは言い出したら、ああ、キリがない。時間がいくらあっても終わらないですね。『キングコング対ゴジラ』を見に行った映画館・西荻セントラルもボーリング場になって、それも今はなくなった。映画館の近くに高級プラモデル屋さんがあって、レーシングカーで遊んだこともあったな。駅の南口に向かう銀座通りに、不思議なことに時計屋さんが五軒もあった。おじいさんが奥の方にいて仕事していた。好きでよくのぞいたけど、そのお店もいつの間にかなくなっちゃった。この通りと五日市街道の角(今の広島カンランのところ)にヤマザキパン屋さんがあって、その隣がクリーニング屋さん、その数軒さきが食堂だった。ちょうど関東バスの停留所前だったと思います。オムライスとかよく食べたけど僕の食堂のイメージはこのお店ですね。五日市街道沿いには、魚屋さんとか好きで通った本屋さんとか、お店屋さんがたくさんあったけど、ほとんどなくなっちゃたですね。残っているのは高橋菓子店ぐらい。昔のことを知っているというのは、いいことなのか悪いことなのかよく分かんないですよね」。

西荻の今と三代目

 話題を今に戻して、西荻窪の魅力について語ってもらうことにした。「久我山のほうになっちゃうけど、ちょっと木が繁っていて武蔵野の雰囲気が残っているところ、西荻にもあるけど緑の多いところが好きですね。この間読んだ橋本治さんの本で彼が言っていたけど、西荻は隠れおしゃれタウンなんだそうですよ。そんなこと言わなくても、高円寺や阿佐ヶ谷もおなじだけど、駅前に安くておいしい焼き鳥屋があるのがいいですよ。西荻だと戎ね。狭くて小さくて昔風のバラックで崩れ落ちそうな雰囲気がいいですよ。いいよね、このいい加減さが、駄目さが好きですね」。

「そうそう、このことは言っておきたいんですけど」、と強調されたのは、「西荻に住んでいていいなと思うのは、金田一家三代目でよかったなと思わされることですね。床屋さんに行くと父の髪型がこうだったとか、すし屋で父の好みがこれこれだったとか話をされると、浮ついた名前だけの関係という感じでなく、なんか地に足の着いた安心したお付き合いができて、この地に生まれた三代目ということを実感できることがうれしいですね」。

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 今の日本語の状況について尋ねると、「若い人は若い人なりに自分に合った言葉を使っている。間違っていても自分の気持ちにぴったり合う言葉を使っている。それはどうしようもないことですね。でも、大人は違う。間違った言葉を使ってはいけない。大人は注意してもらえないですから。政治家の言葉使いはひどいものだし、団塊の世代はたかが言葉じゃないかと思っているようで、どうしようもないですね」、とこれまでの話ぶりとは違った、きっぱりとした口調でいわれた。

 取材が終わるころ、「今日は西荻なので早めに行って、水のおいしい西荻でうまいコーヒーを飲もうと、楽しみに来たのに、降りたらもう来てるんだもん。アリャと思って、行きそこなっちゃったよ」、と言われてしまった。おいしい喫茶店があるのも西荻の魅力の一つですね。お会いしたとき、そうとは知らず松庵舎に案内してしまい失礼いたしました。よく通った喫茶店ということなので、帰りに寄られたことと思いましたが、戎かもしれないという声もありました。先生、早く行き過ぎてすみませんでした。

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文: 鈴木英明 写真: 澤田末吉

取材日 2017年6月26日

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杉並区高円寺在住イタリア人

西荻春秋記事 「杉並区高円寺在住イタリア人
   ジョバンニ・ピリアルヴ(Giovanni Piliarvu)さん」

ジョバンニ・ピリアルヴ(Giovanni Piliarvu)さん

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 イタリア半島西方の地中海に浮かぶサルデーニャ(Sardegna)島、人口165万人、面積はシチリア島に次いで地中海で2番目に大きな島である。海に囲まれた豊かな自然と古い建造物が残る歴史ある町並みが魅力だ。これから紹介するジョバンニさんは、そんな環境で生まれ育った。

 イタリア人というと、陽気でお喋りのイメージがステレオタイプ(先入観)として定着している。だが、彼にそれは当てはまらない。穏やかで落ち着いた紳士だから。言語も文化も異なる国に長く住み続けるのは簡単なことではない。インタビューに応じるジョバンニさんから、柔軟で協調性に富んだ人柄を感じた。「この人だから、10年もの長きに渡って日本在住が出来たのだ」その秘密の一部を垣間見た気がした。

 ジョバンニさんは、島から比較的近いイタリア・ルネサンスの拠点、フィレンツェ(Firenze)にあるフィレンツェ大学に入学した。そして、教育学と言語学を専攻した。「失礼かも知れないけれど、最初は日本に全然興味がなかった。ドイツ語やイタリア語を話す人は多いから、珍しい言葉を勉強したいと思った。だから日本語を専攻した」と振り返る。

 日本語の難しさにクラスメイトが次々と脱落していく。ジョバンニさんは勉学に励み、見事修士課程を取得、卒業旅行で初めて日本を訪れた。日本については、滞在経験のある同級生や日本の友人から話を聞いていたが、初めての日本で強く印象に残ったのは風景だった。

 秋の紅葉は素直に美しかった。だが、町の空が見えないほど張り巡らされた電線には驚かされた。イタリアでは景観維持のため規制が厳しくありえない光景だからだ。

 卒業後は、フィレンツェで働きたいと望んだが仕事がなく、ビジネスチャンスを広げるために貿易を学ぼうとベルギーを訪れた。その後、貿易研修のために再来日、以後10年、日本に住むことになった。

 ジョバンニさんは、イタリア語教師の傍ら、写真家としても活動している。おじいさんがカメラ屋を営んでいたので、小さい頃からカメラに触れる機会があった。学生時代はミュージカル歌手をしていたこともあったが、東京では音楽活動は難しいので、代わりに写真を撮っているという。

 彼の写真のモチーフは日本とサルデーニャ島の風景や祭りで、ギャラリーでの展覧会も開催している。日本では、徳島の『阿波踊り』や越中八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事『おわら風の盆』などを写真に収め、阿波踊り協会等に写真提供もしている。

 サルデーニャ島の祭りはどのようなものか聞くと、「長くなるよ」と笑いながら嬉しそうに語ってくれた。サルデーニャ島では、1年に約120もの祭りが行われる。自然と生活が密接に関わるこの島では、祭りも自然に関わるものが多く、その点では日本の神道にも共通点が見られるという。

 昔は、食事も仕事も自然の影響を大きく受けたため、自然崇拝や豊作祈願をしたり、祈りのために生きている人を捧げたりしたそうだ。現在では実際に犠牲は行わずに模倣により伝統を受け継いでいる。中世、サルデーニャ島は4つの地域に分かれていた時代があった。祭りにもその影響が見られ、同じ島内でも30キロメートルも離れれば地域によって全く異なった祭りが行われる。

 騎馬行列があったり、日本の『なまはげ』のような格好をしたり、特色は様々だ。自然への祈りや行事内容など、日本の伝統的な祭りとの共通点も見られ、遠く離れた地でも昔の人々の生活は似ていたことに驚く。ジョバンニさんは、日本サルデーニャ協会の運営に参加しており、こうした祭りなどを中心に、写真を通してサルデーニャ島の文化や歴史を日本に伝えている。

 また、5年ほど前に日本の旅行会社から相談を受けたのをきっかけに、ジョバンニさんはサルデーニャ島への旅行案内も行っている。サルデーニャ島は、リゾート地として海を見に行きたいという人が多いけれど、島の良さは内陸にある。自然保護環境に優れ、他の場所で失われてしまったものも残っている。

 シチリア島では、他民族が移り住んで新しい建造物がたくさん建てられたが、サルデーニャ島には移民が少なく、文化にあまり変化が起きなかった。郊外に3000年前の遺跡がいっぱい存在する。今でも昔と変わらぬ時間がゆったりと流れる。

「サルデーニャの人々は自分のアイデンティティを持っているから、現在でも羊飼いがいて、歴史や伝統を大切に守り続けている。それがサルデーニャの魅力、島を案内して人々が感動するのを見るのが嬉しい」とジョバンニさんは誇らしげに語る。イタリアを離れ、いろいろな異文化に接してきた彼の言葉には説得力がある。

「他国の文化や習慣、考え方で合わないことがあっても、『ありえない』と拒否するのではなく、合わせることも必要。僕は、ここではお客さんだから」郷に入っては郷に従えの故事を実行している。

 そんな彼だが、芸術家としての一面も顔を覗かせる。「展覧会を開催すると、機材は何を使っているかと尋ねる人が多い。僕は、もっと作品を見て欲しいと思っている」この発言はカメラ機材などの道具よりも、写真作品、つまり創作を大切にしている証である。

 また、日本国内を旅行する時は、ホテルよりも民宿を使うようにしているという。「自分の家族のように迎え、もてなしてくれる。ホテルの『お客様は神様』みたいな対応はあまり好きじゃない」人との出会いを大切にする姿勢も強く感じた。

 現在、高円寺に住んでいるジョバンニさん。「杉並の魅力は、下町の感じが残っていること。高い建物が少なく、生き生きとしたエリア。あと、高円寺に住んでから、阿波踊りにはまった。お陰様で、毎年阿波踊りの撮影をさせてもらっているから、夏は灼熱の東京に居てもすごく楽しい。」

「サルデーニャは一応イタリアだけど、文化と歴史が違うから、日本でいう沖縄みたいな島」現在はイタリアに属しているが、イタリア半島から離れているため、前述した異なる文化と歴史を作り上げてきた。言語も独自のサルデーニャ語が存在する。現世代のジョバンニさんはイタリア語で育ったが、サルデーニャ語も理解できる。島の高齢者は、今でもサルデーニャ語を使い、イタリア語が分からない人もいる。

 そのためか、日本のテレビ局から頼まれ、サルデーニャ語を日本語に翻訳する機会も増えた。今後の夢について訊ねると、「教えるのが好きだから、イタリア語を教えながら写真の仕事も続けることが出来ればと考えている」と答える。

「日本に出身地、サルデーニャのサッサリという町などを紹介する活動をしたことがあった。今後は、日本をイタリアの大都市で紹介する活動もしたい」異なる環境で柔軟に人々と真摯に対応するジョバンニさん、更なる活躍を期待したい。

文:大久保苗実 写真:澤田末吉

取材日:2017年3月25日

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“ドゥカティ”と“ヴェスパ”のあるテーラー

西荻春秋記事「“ドゥカティ”と“ヴェスパ”のあるテーラー LID TAILOR 根本修さん」

LID TAILOR 根本修さん

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プロローグ

 西荻春秋の取材メンバーに冨澤信浩という記者がいる。彼は無類のモノオタク、車・バイク・ゴルフ用品・時計・携帯・音楽など、とりわけクラシックな機械モノに目が無い。そんな冨澤記者が是非とも取材したいと願望する店、それが根本修さんが経営するビスポークスーツやシャツをオーダーメードするLID TAILORである。欧米風なおしゃれな洋服屋さんと思って店内を覗くと、なんと、あのイタリア製のオートバイ“ドゥカティ”が、店頭にはスクーター“ヴェスパ”が飾られているではないか。それもかなりの年代物、居ても立ってもいられない冨澤記者は店に飛び込んだ。

モノ好きな二人、映画「ローマの休日」で心が通う

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 LID TAILOR(リッド テーラー)の根本修さんは1972年生まれの44歳。店に飾られる“ドゥカティ750 Super Sport”は1974年に製造された42歳、知る人ぞ知る憧れの名車である。根本さんは「いつでも快調に走ります」と誇らしげに語る。それもその筈、これほどピカピカで大切に扱われた“ドゥカティ”とは滅多に出会うことが出来ないからだ。マニアにとっては宝物と冨澤記者は興奮する。
 根本さんによると、数台の“ドゥカティ”を所有する友人に是非譲って欲しいと声を掛けていたが、長年の夢が叶ってやっと実現したとのこと。自分は、いつも預かっている気もちでいると語る。ディスプレイされたスーツの陰にさり気なく置かれる“ドゥカティ”、「何とも言えないノスタルジックな気分になる」と冨澤記者はうっとり眺める。

 一方、“ヴェスパ”は1964年製、映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが乗った、あのスクーターである。根本さんは「足代わりに使っている」というが、こちらも手入れが行き届いてピッカピカだ。「ローマの休日」の名場面に登場する“ヴェスパ”を必ず記事にして欲しいと、冨澤記者経っての願いなので、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペック、そして“ヴェスパ”の場面を再現してみよう。

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 ヨーロッパ最古の王位継承者、アン王女(オードリー・ヘプバーン)は、 欧州親善旅行でロンドン、パリなど各地を来訪、ローマでは任務を恙なくこなす王女だったが、内心は分刻みのスケジュールと用意されたスピーチを披露するだけのセレモニーにうんざりしていた。就寝の時間になると侍従たちにヒステリーを起こしてしまう。
 主治医に鎮静剤を注射され、気が高ぶってなかなか寝つけない。彼女は、宿舎になっている宮殿を脱出、夜のローマをぶらぶら歩く。やがて、鎮静剤が効いてきてベンチに身体を横たえる。そこを偶然通りかかったのが、アメリカ人新聞記者ジョー・ブラドリー(グレゴリー・ペック)だった。若い娘がベンチに寝ているのを見て家に帰そうとするが、アンの意識は朦朧としている。そのまま放っておくことも出来ず、ジョーは自分のアパートへ連れて帰る。
 翌朝、うっかり寝過ごしたジョーは、まだ眠っているアンを部屋に残したまま、新聞社へ向かう。支局長から「アン王女は急病で、記者会見は中止」と聞いたジョーは、そこではじめて昨晩の娘の正体がアン王女であることに気づく。王女には、彼女の身分を知ったことを明かさず、ローマの街を連れ歩いて、その行動を記事にできれば大スクープになると目論む。
 アパートで目を覚ましたアンは、思いがけない事態に驚くが、同時にワクワクする気分も感じていた。アパートを出た後も、せっかく手に入れた自由をすぐに捨て去れず、街をのんびりと散策、ごくふつうの女の子のように楽しい時間を満喫する。
 スクープに必要な証拠写真をおさえるため、ジョーは同僚のカメラマン、アービング・ラドビッチ(エディ・アルバート)を誘って、アンを連れてローマを案内する。二人乗りスクーター“ヴェスパ”で街中を疾走、いろいろな名所を訪ねる。夜はサンタンジェロの船上パーティーに参加するが、その会場でアン王女を捜しにきた情報部員たちが現れる。アンとジョーは情報部員相手に大乱闘を繰り広げ、一緒に河へ飛び込んで追手を逃れる。
 つかの間の自由と興奮を味わううちに、アンとジョーに恋心が生まれる。河からあがった二人は、抱き合って熱いキスを交わす。本当の想いを口に出せないまま、アンは祖国と王室への義務を果たすために宮殿に戻り、ジョーは彼女との思い出を記事にしないと決意する。その翌日、宮殿でアン王女の記者会見が開かれる。アービングは撮影した写真がすべて入った封筒を、王女にそっと渡す。見つめ合うアンとジョー。「ローマは永遠に忘れ得ぬ街となるでしょう」笑顔と共に振り向いたアン王女の瞳には、かすかに涙が光っていた。



(参考資料:ローマの休日 製作50周年記念デジタル・ニュースマスター版記事より抜粋)

テーラーとは

 Tailorを手元の英和辞書(『ランダムハウス英和大辞典』小学館)を引くと、(男子服を注文で仕立てる)テーラー、洋服屋、仕立屋とあって、その語源には初出が1297年で古期フランス語の「切る」という語から派生した、と解説されている。テーラーという言葉は13世紀末まで遡ることができるわけだが、その当時の服といえば袋のようなゆったりとしていて、仕立てる方もあまり腕の振るいようがなかったと思われる。テーラーの歴史は服装の歴史に重なる。どのような変遷をたどってきたのか、”The History of Tailoring” ( by G.B.Boyer ) で簡単に見てみよう。

テーラーの歴史

 中世期の服はルネッサンスの到来とともに衣服は次第に短く、タイトに変化していき、服作りも人の体形を意識したものに変わっていった。平らな布地をいくつもの部分に切り分け(カット)、縫い合わせることで立体的な人の体形に合わせた服を作り上げるようになる。17世紀中頃になると男子服の変化が始まり、それまで着ていたものからコート、ベスト、ズボンを着るようになり現代風の3点セットの原型が登場する。
 18世紀に入ると英国で男子服は、華美な装飾やフランス宮廷風なスタイルから離れ、新興のジェントリーや商人階級の好むはるかに地味な服装に移っていった。19世紀になるとこの傾向は宮廷にも浸透し、国王等の着る服と臣下の着る服にほとんど差がないような状態となった。そして産業革命のうねりの中で英国の服作りは、新興層向けに作り出された男子服のスタイルを進化させ、さらに、体形に合う(フィットした)服作りを進めた。英国文化が世界を席巻するに伴い、それにより、英国のテーラーがファッション界を支配するようになった。派手な装飾から離れる傾向が強まるにつれ、フィットするか、しないかは服作りの基準となり、そのためにテーラーにはより優れた技術が要求された。
 テーラーの服作りは機械化できないアートの境地に達する。人々は派手な表現より上品さ、簡潔さ、カットの完璧さをより好むようになる。テーラーは自らの服作りが一人ひとりのスタイル、個性のあらわれであることを確信している。今日、服装の世界が大量生産の時代を迎えるなか、テーラーはいずれ消滅すると言われたが、依然として個々の顧客本位の服作りと上質な服を武器に生き残り続けるとみられている。

テーラーの中心街サビル・ロウ

 テーラーの中心地はロンドン市内のサビル・ロウ(Savile Row)だ。一流の紳士服の仕立屋が多く並ぶファッション街である。英語でa Savile Row suitといえば仕立てのすばらしいスーツのことである。その街の老舗、Henry Poole & Coは1806年に創立された。父から事業を受け継いだヘンリーはサビル・ロウの創設者と呼ばれる。サビル・ロウの伝統を守ろうと設立されたホームページ(http://www.savilerowbespoke.com)には他の老舗のテーラー、Davies & Son,Gieves & Hawkes,Norton & Sons などの名が並ぶ。いずれも19世紀創業の店だ。しかしこれらの名になじみのある人は少ないだろう。テーラーは、顧客の注文で服を仕立てる店で、サイトの名にあるビースポーク(bespoke)の意味(服があつらえの)と同じである。大量生産して不特定多数の人々に服を提供するメーカーとは違って、テーラーの作る服は注文主の顧客にだけ合う唯一の、ユニークな服になるわけである。したがって、日本ではこれらのテーラーの名を知る人は限られてしまうことになる。

日本のテーラー

 さてテーラーという職業はいつ日本に誕生したのであろうか。日本が西洋文化に接した幕末と想像できるが、洋服ははじめ西洋服といったといわれる。福沢諭吉が慶応三(1867)年、彼の著書の『西洋衣食住』で西洋服のことを詳しく解説している。『福沢諭吉背広のすすめ』(出石昭三著)によれば、福沢は慶應義塾内に「衣服仕立局」を開き、塾生のために洋服を作り始めたそうである。同書から紹介する。
 西洋服を扱った最初の店は「富国屋」といい明治二(1869)年に日本橋で開店した。横浜の洋服商から仕入れていたそうだ。また日本人経営の初めての洋服屋は、横浜居留地で慶応三年に開いた「大和屋」であるが、万延元(1860)年、箱舘に日本人の洋服屋があったと言われている。和服の修理所にロシア人が洋服の修理を頼んだのがきっかけで、ロシア人の洋服を参考にして洋服を作るようになって、店の名を「木津洋服調達進所」といったそうだ。
 とにかく明治以降は文明開化ということで洋服の普及は目覚ましく、明治四(1871)年五月に発行の『新聞雑誌』には、「東京市中諸職人の中当時尤盛なるは軍服(ぐんふく)洋服(ヤウフク)の仕立屋なり」と紹介されている(小学館『日本国語大辞典』「洋服」の項)。

テーラー、洋服屋、仕立屋

 ちょっと横道の話。テーラーと洋服屋、仕立屋はどう違うのか。具体的にこう違うとはっきり指摘はできないが、仕立屋が少し古めかしい感じを受けるがどうであろうか。なにせ仕立てるという語は、「仕立て給える」という形で『源氏物語』にも使われている言葉だからそう感じてしまうのかもしれない。辞書(『同大辞典』)を調べれば、仕立屋は江戸期には使われていたことが分かるし、洋服屋は既に説明したように明治からで、テーラーは外来語として大正期の辞書に取り上げられている。ジョン・ル・カレに『パナマの仕立屋』(”The Tailor of Panama”)というスパイ小説がある。主人公の職業がテーラーでその邦訳題に仕立屋が使われている。ピーター・ラビットの童話の『グロースターの仕立屋』(”The Tailor of Gloucester”)も同じで仕立屋。映画にも『仕立屋の恋』というのがあった。どうやら文芸の世界では洋服屋は座りの悪い言葉のようで、仕立屋が好んで使われている。なお明治時代のスリの親分、「仕立屋銀次」は銀次が元和服の仕立て職人だったのでそう呼ばれたのだそうだ。洋服を作ってはいなかった。

LID TAILOR STORY

 根本さんは幼少の頃、母親が子供の服をミシンで縫う姿を目の当たりにしてきた。その潜在映像から洋服づくりに関心を抱き、この道をめざした。高校卒業後、服飾専門学校に進み、アルバイトで貯めたお金でお気に入りのテーラーで洋服を作った。福生の横田基地を拠点にしたアメリカナイズされた雰囲気の店でお洒落なオーナーに憧れていたからだ。
 専門学校卒業間近の頃、オーナーから卒業して何をするか決まっているのかと聞かれた。何も決めていないと答えると「それじゃあ、うちに来ないか」と誘われた。そのテーラーで10年ほど修業した。店の先輩から独立するので手伝って欲しいと誘われ、4年ほど一緒に仕事をした。その内に自分も独立して独自のスタイルで洋服づくりをしたいとの思いが強くなっていった。
 根本さんは1960年代にロンドンで発祥したモッズカルチャーが大好き、ビートルズやローリングストーンズの大ファンで、彼らの着ているスーツがカッコいいと思っている。着る側から作る側に代わっても、その思考軸は変わることはなかった。
 西荻窪の五日市街道添いに店を借りてスタートした。その後、今の場所に移転してLID TAILORという店名にした。今年で10年目を迎え、伊勢丹メンズ館や三越と取引するまでに発展した。
 冨澤記者が、テーラーなのに何故バイクとスクーターを置いているのかと質問すると、根本さんは「僕の周りには、趣味に共感して集まって来る仲間がいる。物で溢れる社会にあって、『これはカッコいい、これはカッコ悪い』とジャッジ出来る人達だ。彼等は服の選択にも自分らしい感性を発揮する。単に仕立てだから良いというのではなく、いろいろあるデザインの中から、根本スタイルを選んでくれる、それがLID TAILORの客層。“ドゥカティ”や“ヴェスパ”を愛する気もちと、テーラースタイルは重なると私は考える。特別に誂えた服は流行が終わっても、思い入れがあるから大切に着る人が多い。つまり、自分だけのものを大事にする精神が根づいている。いつまでも着続けられる服を作るのが、自分の基本コンセプト。時代に逆行しているかも知れないが、そこに共感して貰える顧客は沢山いるはず」と根本さんは語る。
 仕事で使う道具にも、根本さんのカタチ意識は強く感じられる。LID TAILORを杉並区松庵に開業した時、近所に老舗のテーラーがあった。挨拶に訪ねるとオーナーは90歳、高齢で廃業するのだという。ついては、60年使ったミシンを根本さんに貰って欲しいと願う。年代物で今では入手できない素晴らしいミシン、根本さんは綺麗に磨いて自宅に保管している。いずれは店のシンボルとして店に飾りたいと考えている。ハサミもイギリス製を好んで使う。日本製に比べると切れはよくないが、何ともいえぬ味がある。根本さんのカタチ好きは、テーラーの真髄を追求する源なのかも知れない。「楽しく仕事をするテーラーは、きっとよい服を作る」根本さんは、そう信じて止まない。
 テーラーになる人間は、縫製や物作りが好きとかいうのがベースにある。僕はストリート、モッズから服を始めた人間、だから凝り固まるのが大嫌い。10年後に同じ服を作り続けているか自分でもわからない。毎年よいと思うものが、多様に変わるという発想からだ。
「僕は『職人一筋』とは、真逆の立場をとっている。勿論、縫製やカットの基礎技術は十分に習得していなければならないが、規則を重んじて縫製服だけを作っていたらテーラーとは言えない。テーラーの仕事は、その上にあると考えている。ネットが発達して要望も多様化している。リッド・テーラー・スタイルと合致する人に来てもらえればよい。誰にもわかって欲しいとは思わない。顧客が、わざわざ西荻まで訪ねてまでもリッド・テーラーの服を買い求めたい。そういう店であり続けたい」

 根本さんは穏やかな人柄だが、秘めたる強さを温存しているように思えた。

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LID TAILOR
BESPOKE SUITS AND SHIRTS
〒167-0054 東京都杉並区松庵 3−31−16 #103
TEL&FAX 03-3334-5551
Mail: lidtailor@jcom.home.ne.jp

http://www.lidtailor.com/

文: 冨澤信浩&鈴木英明
写真: 澤田末吉(ローマ画像)&奥村森(リッド・テーラー画像)

取材日 2016年11月28日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん

西荻春秋 「西荻の親子写真師二代 高木文二さん、昇さん」

縁ある同士、必ずどこかで結ばれる

 ここに一冊の本がある。昭和41年に読売新聞社から刊行された写真集「人間国宝」。昭和23年に写真師により結成された新生写真協会メンバーが撮影した写真だ。

 人形浄瑠璃・文楽太夫、十世・豊竹若太夫の楽屋から退席するさりげない姿。人形浄瑠璃・文楽人形、二世・桐竹紋十郎の緊張感漲る舞台と楽屋での一枚、自宅で撮影した人形を動かす写真は斜逆光線を生かした写真師ならではの傑作。京都で撮影した染織・有職織物・羅の喜田川平朗の品格溢れる肖像。滅びゆく玉藍のユカタを墨田区の自宅で切なく制作する染色・長板中形の清水幸太郎。文京区にある自宅工房の空気を巧みに表現した蒔絵師の松田権六の仕事場風景。

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上段左と中央は清水幸太郎、右は桐竹紋十郎 下段左から豊竹若太夫、松田権六、喜多川平朗(読売新聞社発行『人間国宝』より)

 これらは新生写真協会メンバーのひとりで、昭和七年に西荻窪で写真館を開業した故・高木文二さんの作品である。
 写真師、あまり聞きなれない言葉だが、写真館のカメラマンをそう呼んでいたのである。今ではデジタルカメラで誰もが簡単に写真を撮ることが出来るが、フィルムを使うアナログカメラ時代には、写すこと自体が至難の技であった。上流階級から庶民に至るまで、写真館での記念写真は人生の大切な記録として浸透して行ったのである。
 西荻春秋の取材先を探すため、いつものようにスタッフは西荻窪の街をぶらりぶらりと歩いていた。すると、スタッフのひとりで生粋の杉並っ子の窪田幸子さんが住宅玄関先で婦人と話を始めた。その住宅のある場所には昔写真館があった。窪田さんは写真を撮ってもらった思い出があり、婦人は、そこの写真師の高木文二さんの子息、昇さんに嫁いできた都さんだったのだ。
 窪田さんには子供の頃から成人式に至るまで、高木フォトスタジオで記念写真を撮って貰った思い出があった。社会人になってからは、言葉を交わす機会はなかったが都さんは憶えていてくれたのだ。写真師は、自分で撮った写真は全て記憶しているという。当時、都さんは顧客の髪や衣服を整える手伝いをしていたのだが、義父の文二さんを尊敬していたこともあり、懸命に仕事をしていたので写真師に負けず劣らず鮮明に憶えていたのだろう。

写真館のある風景

 昭和12年、昇さんは文二さんと輝子さんの長男として生まれた。幼少期、彼は祖母にとりわけ可愛がられた。幼稚園通いはいつも付き添い、怪我をしないようにと50cmの高さから飛び降りることもさせないほどだった。そんな祖母が口癖のように昇少年に伝えた言葉があった。それは、「親の職業から離れたら駄目」であった。
 小学校は近くの高井戸第四小学校に通った。しかし、昭和19年、 空襲で校舎が焼失、生徒達は高井戸第二小学校と桃井第三小学校に別れて授業を受ける混乱期を迎えた。だが、有難いことにスタジオと家は焼けずに残った。
 高校は日大二高へ、クラブ活動は美術部に参加した。美術部主任であった日本画家・上林教諭から構図や空間表現を学び、創作に関心を抱くきっかけとなった。そして、大学は日本大学芸術学部写真学科に進んだ。これには文二さんの大きな期待が込められていた。昇さんを「写真館の跡継ぎにしたい」との強い思いがあったからだ。当時の教授陣は少数ではあったが、報道写真家の草分け、渡辺義雄、写真芸術論や写真史の第一人者、金丸重嶺など、優れた指導者が名を連ねていた。
 ある日、昇さんは渡辺教授に「どうすればよいのですか」とノウハウについて質問したことがあった。すると教授は「僕が言うことじゃないから、盗んで上に行きなさい」と答えた。先輩の後姿を見て学ぶ時代だった。
 写真界は木村伊兵衛と土門拳の全盛期、そしてアメリカ広告写真が流行。写真家は、若者にとって一躍憧れの職業となった。同期生に日本写真家協会会員で作家活動を現在も続ける立木寛彦(たつきひろひこ)がいた。彼の実家も写真館であったが、作品づくりがしたくて創作の道を歩んだ。昇さんも、世に認められてからも助手にシャッターを押させない土門拳の姿勢に尊敬の念を抱いていたが、写真家への道を目指すことはなかった。
 大学を卒業すると社会勉強のため、浜松町の広告写真スタジオで修行した。流行最先端の職場ではあったが、父の仕事を継ぐ覚悟に迷いはなかった。創作活動は休日に建築写真を撮りに出かけるのみであった。
 助手として下準備をし、あとは文二さんがシャッターを押せばよい状態にセットアップするのが、昇さんの仕事だった。その他に西荻窪駅前の「こけしや」や教会での結婚式撮影も請負、多忙な毎日を過ごしていた。

 ある日、縁あって都さんと出会い、結婚することになった。父と親しかった写真館の草分け、写真師で肖像写真家でもある吉川富三が二人を祝福して婚礼写真を撮ってくれた。吉川は自然なライティングを駆使する写真師として知られていた。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-7-1024x579.png です左は祖母と両親の遺影を掲げる昇さん、右は昇さんと都さん

 吉川との出会いは、昇さんの写真人生に大きな影響を与えた。写真師は創作写真家に比べると、芸術家としての評価が恵まれない傾向にあった。吉川は著名人の肖像を写真集にすることで、地位を高めようと努めた。昇さんは、建築を主題に独自性を強調しながら、写真館組合が発行する雑誌「JPC」に掲載したり、毎年開催される日本文化協会全国展・関東写真家協会展に出品したりと、大いに吉川からの感化を受けた。
 文二さんは、第68代総理大臣・大平正芳、20代の頃の俳優・森繁久弥、子役時代の女優・松島トモ子、久我山に在住していた洋画家・東郷青児、松庵に在住していた文学者・金田一京助、女優・京塚昌子などの肖像を残している。杉並区高井戸に住んでいた歌人の木俣修は、文二さんの作品を「これは本当の芸術だ」と称賛した。

 昇さんも、三笠宮崇仁親王、日本経済団体連合会第4代目会長・土光敏夫などを撮影している。土光は「撮った写真を全部見せろ」という。カメラマンは、よい写真を選んでプリントして渡すのが常識だ。安定した実力がないと要望に従うのは難しい。昇さんは覚悟を決めて見せることにした。土光は「この写真気に入ったから買う」と言う。売る訳にいかないから、嬉しさもあって寄贈したという。都さんは「私、土光さん大好き、ぴしっと筋が通っていたから」と褒め讃える。よい写真には人柄まで写るものなのだ。写真師二代、見事な仕事ぶりである。

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上段左から東郷青児、松島トモ子、金田一京助 下段左から京塚昌子、土光敏夫、森繁久弥 (杉並区立郷土博物館所蔵)

写真館が消えた日、時代も変わった

 昇さんと都さんは、建築を学んだ長女・朋美さんから古くなった家の再建提案を受けた。昇さんは、文二さんの写真館を守りたい一心で抵抗してきた。しかし、東日本大震災の揺れは尋常なものではなかった。「お母さん、絶対危ないからお父さんを説得して」と娘さんから懇願された。平成25年、ついに意見を受け入れた。

 昇さんの気もちを察した長男・昭彦さんから「せっかくだから、お父さんの写真を飾ったら」と居間にギャラリー、玄関にショーウインドーが設けられた。ショーウインドーの写真はスタジオを知る者には懐かしく、知らない者には謎めいたものとなった。

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玄関先のショーウインドーと居間のギャラリー

「昇さんは手間の掛らない頑固者、学生時代からずっとお父さんに尽くしてきました。一方で自分の世界も遠慮しながら貫いてきた。昇さんにとっても、スタジオが無くなれば縛られることなく、好きな写真を自由に撮ることが出来るのでは、私は賛成、よかったと思います」と都さんは語る。
 最近のカメラ事情について「デジカメは簡単、数打ちゃ当たるだろうって、趣味で写真団体に参加する友人が言うけど、作品を見ると数ある内の一枚だってすぐわかる。僕の考えとは根本的に違う。彼には何も言わないけどね、今は写真サークルの6割が女性で、誰でも簡単に写せることを望むから」と昇さん。
「昇さんの気もちはわかるけど、年取ってきた人が楽しむという考え方もあるでしょう。それもありかなって思うの。手伝いだけで写すことをしない私から見ると、極めるという以前に下手だからと諦めていたことが可能になって、写真ってこんなに面白いものかと再認識したのよ」と都さん。
 誰もが写せるようになると、写真館の仕事も先細りとなる。親の職業を子が継承するのも難しい時代になった。娘の朋美さんは写真センスがあり、機械にも強いから跡継ぎには最適な人材。しかし、彼女は建築を学び写真から離れた。昇さんが興味を抱いた建造物への道、これもある意味で親子継承なのかも知れない。

記録の行方

 スタジオのない生活は、昇さんを変えていった。雑誌投稿、写真展出品、コンテスト出品など、より意欲的に創作に取り組むようになった。雑誌では「最高賞の総理大臣賞受賞が目標」と積極発言をする一方、「賞より新しいものを撮ることが出来たら幸せ」と謙虚さも覗かせる。「体力と感性がある限り作品づくりをしたい。僕は、写真を撮りながら棺桶に入るのが理想」と語る。
 写真を撮るには肺と腹筋を鍛えることが大切と体力づくりに努める。昇さんは、若い頃から『弓道』をしていた。しかし、父に代わって仕事をしている内に筋肉が衰え、弓を引くことが出来なくなってしまった。それからは、弓に通ずる礼儀作法で親しみやすい『スポーツ吹き矢』にチャレンジすることにした。現在キャリア2年目を迎える。また、時間があれば長靴を履いて今川まで30分ほど自転車を走らせ、区民農園で畑仕事をする。食べきれないほどの収穫があるという。
 文二さんが亡くなった時、杉並区郷土博物館に肖像写真の一部を寄贈したことがあった。写真館閉鎖に伴って、30人分のポートレート、計58点の写真と機材一式を改めて贈呈することにした。
 写真記録というと、誰でも「動の記録」である報道写真を思い浮かべる。しかし、文二さんと昇さんの仕事は「静の記録」、さりげない毎日の積み重ねが百年後に偉大な記録となる好例だろう。

 これから杉並区郷土博物館で作品に触れるたび、ベレー帽をかぶり、洋服を茶で統一したおしゃれな文二さん、律儀な頑固者、そして謙遜の人、昇さん、親子写真師二代の姿が思い浮かぶに違いない。

文: 奥村森 写真: 高木文二、高木昇、澤田末吉
取材日 2016年9月16日

ー 肖像権許諾にご尽力頂いた方々

高木昇&都夫妻、杉並区郷土博物館、金田一秀穂様、森繁建様、松島トモ子事務所様、ギャラリー・コンティーナ様、橘学苑様。京塚昌子さんに関しては、ご遺族の所在不明のため肖像権許可なしに掲載しております。
肖像権者の方がご覧になりましたら、是非ご連絡下さい。

ー 参考資料 ー

読売新聞社 写真集「人間国宝」

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バイオリン製作者&修理 桂敏明

西荻春秋「バイオリン製作者&修理 桂敏明」

Prologue プロローグ

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ベルク・バイオリン工房

 或る日、西荻窪駅に向かう裏道に可愛い家が出来た。窓辺にはバイオリンが掛けられ、木製のプランターにバイオリン製作者の名前と年代が焼き付けられていた。
 楽器に触れたことの無い者が、覗きたいけれど覗けない世界に、好奇心と畏敬の念とを抱きながら通り過ぎた。私の記憶の中の西荻は洗練されないローカルさがあって、そんな処が「愛すべき西荻」なのだと思っていた。街は少しずつ変わっていく。

バイオリンに関わる人は多いが、製作で飯を食える人は殆どいない

「僕、お客さんとも作業しながらラフな感じでやりますので」
 門外漢が記者の大役を任され、緊張で頭の中がひっくりかえったようになっていたが、その言葉で「何もわからないけれど、兎に角食らいつかなければ」と腹を括った。
「Since 1990」とベルク・バイオリン工房のホームページには書かれている。そんなに前だったかな?・・すると、現在の工房は14年前に出来、以前は一本西側の道の喫茶店の隣の建物の一室にあったそうだ。「看板がひとつ出ているだけのような感じで。皆、気づかないで」と奥様の以そ美さんがおっしゃる。
 西荻窪に工房を構えたきっかけは全くの偶然だった。場所を探していて西荻窪駅で降り、飛び込んだ不動産屋に紹介された部屋だったそうだ。
「騙されたんですよー(笑)」
 その道は近隣住民ですら、あまり通らないのではないだろうか。それでも現在の工房を構えることが出来たのは、桂さんが知る人ぞ知る腕の持ち主ということだ。

偶然が運命を導く時

 実は最初からバイオリン製作者になろうとは思ってもいなかったそうだ。或る朝、新聞の求人欄が目に飛び込んできたのである。
「僕は薬剤師になろうと思ってたんです。実は一度、学校に入ったけれど、そこは嫌で辞めて浪人した。でもなかなか通らなくて。いつまでもそうしている訳にもいかないから、大学受験をしながら、筑波の動物園に行って飼育係として働いてなんとかしようと思っていた」
 そして筑波へ向かおうという朝。
「朝、新聞配達が来て、見たら『バイオリン(製作者)募集』って書いてあった。それで電話したの。その時言ったのが、才能ないと思ったらすぐに首にしてくれって言ったんですよ」
 桂さんの喋り方に、その時の光景が浮かぶ。新たな出発を控えていたのに何故一秒もかからずに決断してしまったのか。
「それバイオリンやってたからですよね」
 就職したのは文京区にある文京楽器だった。
 桂少年とバイオリンとの出会いは小学校3年の時だった。学校の音楽の時間にテレビ放送を見た。バイオリニストが『赤とんぼ』を弾き、それまで恐く感じていた低音が、
「物凄く、凄く耳にすーっと入ってきて気持ちよかったんです」
 話すことの下手だった少年は、教師だったご両親に作文を書かされていた。

「そしたらバイオリンを習うような感じに持ってかれて、バイオリンを習っちゃった!」

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山本繁一氏と修理を待つバイオリン

 結局、一年半位レッスンを受けたが、同じ先生に読売日本交響楽団のバイオリン奏者、同級生の山本繁一氏が習っていたのである。文京楽器に就職した事は、山本さんには黙っていた。ところが文京楽器が『ストラディヴァリウス展』を開催した三越の会場で、二人は再会することになる。演奏者と製作者。偶然に導かれて、二人は改めて良い友となった。

何だ、簡単だなーって思ってたんです

 文京楽器は1947年4月、コントラバス専門店としてチャキ弦楽器を創業。1965年総合弦楽器専門店としてバイオリン・ヴィオラ・チェロの直輸入を開始した。1975年ストラディバリウスを初めて販売する(文京楽器ホームページより)

 桂さんが入社したのは、文京楽器の社長ご子息がドイツ(ミッテンバルト)のバイオリン製作学校から帰国、バイオリン製作販売を創めた頃だという。社長も含めて職人しかいない会社で、おべっかを一切使わず、プロの演奏家に対しても「こんな使い方してはいけない!」などと怒鳴ったりしていたそうである。それだけ技術に厳しい修理を土台にしたバイオリン店だったのだ。

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桂敏明さん

「一番良かったのが、ギターとかコントラバスとかの修理を土台にしてた店だったんで、歴史の流れとしては凄くいい」
 バイオリンは16世紀初頭頃から、少しずつ作られ始めたと考えられている。それ以前はギターやリュートがあり、それらの技術を持っていた人がバイオリンを作るようになったのではないかと言う。
「だから向こうのバイオリン製作者のことをリューテリアって言うんですよ」
 バイオリンのことを全く知らないから、構造から一生懸命に説明してくださる。
「部材は裏板、表板、横板、ネック、指板。たったこれだけで。だから初めバイオリン工房に入った時、何だ簡単だな、って思ってたんです」。「あーな~んだ、これくらいじゃんって」
 ところが十数名で修業を始めたのに、途中で脱落していき、工房で一人位しかできるようにならなかったという。はじめは製作が進み、変化がわかる。しかし次第にミリ単位以下を削っていく作業になるから、強い精神力が必要となるのだそうだ。
「頭にずーっと重しを乗っけられて上から乗られている感じ」
 余りのストレスに自転車に乗って大声で歌いながら家路に着いたりした。昼間の仕事が終わってからの妥協のない修業に皆、次々と脱落していったのだ。

形が音なんです

「最初に本物を見ることが一番大事ですね?」聞いてみる。
 文京楽器には当時、日本一、最高の楽器が来ていると言われていたそうだが、桂さんは「ほんとかよ?」と思っていたそうだ。実際に本物のアマティなど、クレモナへ見に行くよりも沢山の楽器が、日本に来ていたそうである。

 次第に話が熱中してきて桂さんが「隆起、撮りますか?」とおっしゃる。「隆起」とは修理の際等に、バイオリンの表面を石膏型に取ったもので、製作の際に「流れ」を見ながら作るそうである。

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「これなんかさあ、ストラド、の本物の隆起」「1730年のマリーン」。
「隆起をずーっと穴が開くほど見るっていう。見ることが一番大事。この隆起っていうのは大体流れ、これ自体が音なんですよね。だから本物を見ろって言われたのはそういう事で、そうすると偽物があったときにわかるっていうんです。本物って綺麗な感じだから。プロは見て買うの。なんでかっていうと弾いた音がその音じゃないですから」

 楽器は作って直ぐに鳴るわけではないのだそうだ。出来た時点で鳴るともうそれは駄目で、鳴らなくなるとはっきり判る。

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「職人は500年鳴るように作りたい。だから直ぐ鳴るようには作っちゃ駄目だし、ず~っと弾いてて鳴るようには作んなきゃいけないですよね」
 音は成長するのだそうだ。どんどんどんどん変わってきて5年目位から少しずつ良くなって来るが、直ぐ鳴る楽器はそこが精いっぱいで、だんだん悪くなるのだと言う。そして楽器は弾かなくなるとすぐ駄目になると言われるが、それは二つの意味があるのだと言う。一つは本当に割れたり、変形したりする事。だがもう一つ、楽器が演奏家の音を忘れてしまう「眠る」というのがあるのだそうだ。弾けば弾くほど楽器は起き上がって、音の天井は上がっていく。それに合わせて奏者も変わっていく。又楽器も変わっていく。人間関係と似ているのだと桂さんは言う。
「だって人の気持ちもわからないようだったら、楽器の気持ちもわからないでしょ」
「ストラディヴァリのような偉大な製作者も、クレモナという地域がなく一人で製作していたら、あのようなバイオリンは出来ていない。時代背景とかそういったものが作らせたし、民衆がこういうのが欲しいって言って作らせただろうし。もっと早い時代に生まれていたらたぶん出来ていなくて、与えられた環境の中で頑張った。つまり才能を与えられたのは自分の努力だけではないから、自分だけでは出来ていなかったよ、たぶん」と桂さんは言う。
 桂さんは熊本の出身だ。教師だったご両親は親の言う事を全然聞かない、むしろ反対の事をわざとやる息子に当惑していたようだ。
 以そ美さんは言う。
「たとえば普通の人が何かをやりたいと思っても、何かにぶつかるなあと思ったらそこを諦めたり、避けたりするんだけれど、そういう障害は障害と感じない。この道が一番と決めたら、ダメだったらこっちから、それもだめならこっちからと結局やり通していくところが、主人は普通じゃない」
 桂さんは、
「警戒心はあるし、安全な方を取ってるでしょ?」
 とおっしゃるが、結局、最後には隔世遺伝、その性格は祖父似ではないかと認めざる を得ないところに、奥様と私たちの会話は行きついてしまった。

ベルク・バイオリン工房の志 ~ フレンドリーマインド ~

 そういう桂さんが工房を構えて知りたかった事は、「職人は敷居が高くなければならないのか?」という事だった。事業を創める目標の一つが、世間的な常識に対しての疑問を解くもしくは解決しようと試みる事だ、いうのはとてもよく判る。独立したら、みずからの力で周囲の賛意を得、事業を継続していかなければならない。だからこそ試し、チャレンジしていく事がひとつのパワーになるのだ。
 実際に桂さんが海外の一流と言われる製作者に会って話を聞くと、みな結構フレンドリーだったそうだ。

「で、それを実行してます」

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左:以そ美さん 右:敏明さん

「ベルク」はドイツ語で「山」の意味。好きだった山登りとバイオリンも山の木から生まれることから名付けたそうだ。工房の壁の色は、イタリアでさまざまな家の色を写真に収めて来たそうだ。さすがこだわり方が半端じゃない。話は取材の枠を超えてどんどん熱を帯びてしまった。
 ぶらり取材体験をきっかけに、これまで縁のない世界を訪ねる事の出来た私達は幸せ、そう感じながら工房を後にした。ここに書けなかった山ほどの貴重なお話、

それはいずれ又!

ベルク・バイオリン工房
Maker & Restorer 桂 敏明
住所:東京都杉並区松庵3−39−3
電話:03-3334-7179
営業時間:10:00-20:00
定休日:日,月曜日

JR西荻窪南口より徒歩4分

文:窪田幸子 写真:奥村森

取材日 2016年6月28日

重要)このブログに掲載されている記事、写真等は全て著作物です。著作権法に従って無断転載を禁止いたします。記事を利用される方はご連絡をお願い致します。

杉並区立郷土博物館を訪ねて

西荻春秋「杉並区立郷土博物館を訪ねて」

 杉並区立郷土博物館をご存じだろうか。
初めて博物館本館を訪ねた時。曇り空に雨傘を忘れて、閉館間際の降り出した雨に途方に暮れていると、職員さんが使い捨てていいからとビニール傘をくださった。それが印象に深く刻み込まれている。
「西荻春秋」がスタートして初めて「公的施設を取材したい」という話になった。

 いつも試行錯誤。体当たりで取材許可を取りに行く。候補にあがったのが郷土博物館だ。記事を書くには熱意と興味と好奇心が必要で、自らの体験と重ね合わせてどこか共感できないと言葉にならない。編集長が体当たりすると、博物館は快く対応してくださり、駒見敬祐さん、小室綾さんの二人の学芸員さんにお話を伺うことになった。

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右:駒見敬祐さん 左:小室綾さん

企画展「すぎなみ郷土史物語」

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博物館正門(井口家長屋門)

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博物館 常設展示室

 博物館に着くと、駒見さんが、企画展「すぎなみ郷土史物語」を案内してくださった。企画を担当された展覧会で、郷土博物館ができた理由を知りたいと伝えると、「まさに今、その展覧会をしています」とのお話だ。実は私事だが、この3月に学芸員資格を取得したばかりである。地域の博物館を学習調査したが、インターネット上に情報が少なく、とあるページに唯一以前の館長の言葉として「失われていく郷土の姿を残したいと願った」と書かれていたのが気になっていたのだ。
 博物館設立には、きっと理由があるのではないかと探ってみると、案の定、そこには感動の物語が隠されていた。それは想像していたよりずっと長い積み重ねの上に、地域の研究者や住民の請願により実現したものだった。
 駒見敬祐さんは中世史が専門で、修士課程を修了されている。学芸員の任用は狭き門だ。若いが、学問を人の役に立てるためには「伝える」仕事がしたいと話し、展覧コンセプトからはその熱き思いが伝わる。
 展覧会の企画は基本的には学芸員が主体となり、博物館では年に1回の特別展と2回の企画展、常設展で年間を構成している。予算もさることながら、学芸員5人体制でも年間120日程度の勤務だから忙しく、新しい事実を発掘する研究にまではなかなか手が回らない。それでも「すぎなみ郷土史物語」展は「なぜ杉並区に郷土博物館ができたのか」「なぜこの地に設置されたのか」、そして地道に郷土史を遺そうと奮闘した人々がいたことが理解できる、正統派の展覧会だ。これが駒見さんらしさだろう。

学芸員として

 小室さんも文化財保存が専門なのだが、なかなか任用がないのだという。地域を回って屋敷林の調査等もされているそうで、ほんわりした人あたりの良さが魅力だ。少しでも博物館に興味を持ってもらおうと、まずはキッカケを作るため、幅広い年代が足を運ぶアイデア作りに日々奮闘している。共通して感じるのは静かだが強い思いだ。
 研究に手が回らないと書いたが、学芸員としてどのように関わっているか尋ねてみた。「ここには区民自身の長い調査と研究の蓄積があり、その厚さ深さに、数年勉強したくらいでは学芸員はとても追い付けないのです」と小室さんは素直に語ってくれた。「だから地域の人々の研究を、学芸員の視点でサポートすることが私たちの仕事だと考えています」という。これまでの地域史研究は研究者が地域民と共に活動してきた。杉並区民ではないおふたりが一生懸命すぎなみのことを考えている姿を見ると、折角、博物館ができたのだから、上手に学芸員の視点を活かすことはできないものだろうかと考えた。
「杉並は日本史に残るような事象はあまり多くないけれど、そこに「人がいる」それが特徴ではないでしょうか?」小室綾さんは言う。
 郷土博物館には5人の学芸員が嘱託として在籍しているそうだ。区民の研究蓄積はこれからも深まるとしても環境は次第に変化していく。「郷土」は過去だけにあるのでなく、現在、学芸員が活動していることも将来にもつながる大切なアーカイブを行える可能性があるのであって、その力を借りて沢山の「ひと」がいる郷土をこれからも息長く耕し、発掘し、研究していくことが重要なのではないだろうか。
 区民との連携の下に専門分野を深め、より広い視野で次の時代にも保存すべき歴史資料を発見し、区民の心のよりどころの一つとなるよう、継続、安定した仕事ができる環境を整えて欲しい。「人がいる」杉並は「人を大切にする」杉並区として魅力を深めて欲しい。

周りの環境も博物館

 駒見さんは、博物館は周辺の環境も含めて「博物館」なのだという。また「名前には深い想いが込められているのです」という。杉並にも「郷土」があった。その風景や暮らしも時代の波に呑まれて、急速に消え失せていくことに気づいた人々が、調査保存の草の根の活動を脈々と続け、博物館設立請願へと繋がったのである。
 郷土博物館本館は平成元年、和田堀公園内にオープンした。京王井の頭線の永福町駅北口から徒歩15分。JR中央線高円寺駅又は東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅から「永福町」行きバスで「都立和田堀公園」下車、徒歩5分等。あまり便利とはいえない場所に博物館はある。計画にあたって旧養蚕試験場、現在の蚕糸の森公園(東京メトロ 東高円寺駅)も候補に挙がったという。それでも博物館以前の地域史研究を積み重ねてきた人々は、明治時代から昭和まで繰り返してきた遺跡発掘調査や歴史的景観を含めた周囲の環境までを含めて博物館の立地条件としたいと望んだ。それが、博物館が和田堀公園内、旧嵯峨侯爵邸跡地に設置された理由なのだという。
 駅に近い便利な場所の方が、人が来るように思えたが、調べてみると区内の学校の見学等での利用も含め、入館者数に遜色はない。それは博物館というものが、わたしたちにとってどのような存在なのかを改めて考えさせられる発見であった。
 東は谷中公園、済美公園から和田堀公園、西は善福寺川緑地公園に至るまで、時として広々とした草地など驚くような風景が広がる、公園ではあるが人が管理しきれない自然をいまだどこかに隠しているような環境である。杉並区の遺跡マップなどを見ると、川に沿って見事に遺跡が連なる。過去を想像しながら散策してみたい。

懐かしい記憶とともに

 さて、土日祝日の午後に博物館を訪れると古民家のいろりに火が入る。また昔、行われていた年中行事を再現している。9月10日(土)~19日(月・祝)は十五夜、10月22日(土)~30日(日)は荒神様だ。我が家ではかつてほぼ同じ時期に荒神様とえびす講をしていた。荒神様には松と榊を上げ、えびす講には尾頭付きの鯛を二尾飾り、うどんをあげて、大きな枡に家族の全員のお財布を入れた。カチカチと父が神棚と私たちの頭にも火打石を打ち、子供のお財布の中身はちょっとだけ増える。それが嬉しく家族全員で食卓を囲んだ。
 行事は気が付くといつのまにか記憶から失われてしまっている。だから区民の協力で再現されることは、貴重な行事の保存そのものだろう。

 博物館は多くの人が関わっていのちを吹き込まれる「場」だ。ほんのひとときを過ごす来館者もそのひとり。そんな余韻を感じながら郷土博物館を後にした。

杉並区立郷土博物館(本館)
〒168-0061 東京都杉並区大宮1丁目20番8号
電話 03-3317-0841

開館時間:午前9時~午後5時
休館日:毎週月曜日・毎月第三木曜日
(祝日と重なった場合は開館、翌日休館)
12月28日~1月4日
観覧料:100円 中学生以下は無料

文:窪田幸子(牛の歩み資料美術館室長 学芸員) 写真:奥村森

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緩やかな時間が流れるジーンズショップ 「オークランド」

穏やかな時間が流れるジーンズショップ「オークランド」の記事

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西荻窪駅の南口を出て、ピンクの象さんで知られる仲通り商店街に入る。その右手、象さんの横にあるのがオークランドである。
店に入ると心地よい音楽が流れ、どこかリラックスした雰囲気が漂う。カジュアルな衣料と共にジェームス ディーンのポスター、古時計、そしてラグビーボールが目に止まる。
店主は二代目の多田裕昭さん。裕昭さんの父、貞蔵(ていぞう)さんがアメリカの中古衣料を扱う店をここで始めた。昭和26年のことである。裕昭さんが生まれた年だ。今年で65年になる。
貞蔵さんは山形から上京し、苦学して蒲田の工業高校を卒業した後、東京の会社に職を得た。そして戦後すぐ、貞蔵さんの兄が呉服屋をやっていた西荻窪の今の場所に移り住み、商売を始めた。

アメリカの中古衣料が出発点。お店は繁盛しました

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「戦争が終わってあまり着るものがなかった時代だったんですね。アメリカの中古衣料をこっちへ送ってきて、洗い場に行って洗ったり、プレスしたり、直したりしてお店に出していました。今では中古屋さんは多いですけど、その頃はそんなになかったのでお店は繁盛していました」
朝は9時くらいから夜は11時まで働き、お店を閉めてからも値札をつけたりして、夜中の1時くらいまで裕昭さんのお母さんたちは働いたそうである。
「西荻の店をやっていた私が小さかった頃、バザーといって宇都宮だとか日本各地の体育館にトラックでいろいろな品物を運んでは売っていました。品物がない時代だから物凄く売れた」
「西荻の店では従業員含めて12人くらい寝泊まりしていました。開店して間もない頃、オープンリールと言ってテープデッキなんて珍しかった時代、大きなテープに案内を録音してトラックで街を廻って、体育館でバザーをやってたんですね。だから、ちっちゃい頃はほとんど家に居なかった。帰ってくるといろいろな玩具をいっぱい買ってきてくれましたね。相当なワンマン社長でしたが、涙もろくて熱い人でした」

西荻の店が好評で、山手線の大塚の駅前と、荻窪(現在のタウンセブンの地下に当たる場所)と合わせて三軒の店を構えた。また別荘を千葉の御宿、そして山形の蔵王のそばに持ち、夏は御宿、冬は蔵王と、裕昭さんは夏も冬も真っ黒になるほど色々と連れて行ってもらったという。

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父は武道が好きでした

「父はもともと剣道とか柔道など武道が大好きでした。高井戸第四小学校というところに僕達(裕昭さんは姉、裕昭さん、妹、弟の四人兄弟)は行ってたんですが、そこでPTAの会長に就いたのがきっかけとなり、剣道教室(尚武会)を始めました。それが今年で50周年を迎え、今では大会で優勝するようになりました。居合は段を持っていて、明治大学(白さぎ会)で教えていました」

昭和48年、ジーンズだけを扱うお店に。そして一番忙しい時期を迎える

「昭和48年、僕が学校を出たくらいからジーンズだけのお店に変えました。その頃はエドウィンとかビッグジョンとか日本のメーカーがどんどん出始めた時です。昔、エドウィンの常見さんという社長さんとお友達で、一緒にやっていた関係でジーンズだけにしたのです。その当時はね、ジーンズブームということもあり、大学生がアルバイトをさせて欲しいと随分来てましたね。この店もアルバイトが沢山いました。大塚の店も含めると、一番多い時には20人くらいいたのかな」
「僕が大学を出る頃はジーンズが日本中流行っていました。丁度その頃、ベトナム戦争が終わってアメ横で軍隊の払い下げのカーキ色のジャケットを売っていました。アメリカで安く仕入れて日本に持ってくると、ものすごく売れたんです。いろんな階級章が付いていたりして。それがその当時の反戦運動の象徴でしたから、多くの人が買いに来ました」

自然な流れで家業を継ぐことに

「僕は教職をとって先生になろうと思っていました。だけど、当時学校に行っても、教室に全学連が入ってきて授業が中止になり、ちゃんとレポートを提出すれば教職課程も取れたんだろうけど、お店が忙しいので手伝わなきゃどうにもならない状況でした。そうして自然に家業に携わるようになりました。大塚の店は人が少なかったので大変でした。カレーうどんが好きで出前を頼んだのですが、忙しくて食べる暇がない。夕方にやっと箸を入れると、そのままカレーうどんが持ち上がったということがありました」
「昭和57年に、新婚旅行でニュージーランドに行きました。ラグビーがとても好きだったので、オールブラックスの国に行ってみたかったのです。その時にオークランドという町に行きました。とても綺麗な街でした。その名前が今の屋号の由来です。アルファベットの木工文字を買ってきて、それとニュージーランドの国鳥であるキーウィーを元に自分でアレンジしました」
「オークランドと命名するまではつるや貿易という名前でした。昔ジーンズのお店はみんな何々貿易っていう名前を付けてたんですよね。うちも法人名としては残っています。屋号はオークランド。昔僕が小さい時はアメリカ屋という屋号を使ってました。アメリカ屋は昔、ジーンズショップの総称みたいな感じでした」
「子供の頃、小学校にジーンズを履いていったら、ジーパンは普通の洋服よりも格下のイメージだったんでしょうね。子供心にちょっと馬鹿にされていたのかなという気がしました。酷いいじめのようなものではなかったですが、アメリカの作業服を売っているお店は、普通の衣料品店より格が下といったイメージがあったのでしょう」

ジーンズもトップ3の時代から新しい時代へ

「昭和48年、一番忙しい時期を過ぎ、それからいろんなメーカーがジーンズを売り始めました。40年を過ぎ、ユニクロやギャップというような大型店に替わっていった。現在、うちは日本で初めて国産ジーンズを作った岡山のメーカーKappaジーンズを扱っています。シリアルナンバー入りで、職人がひとつひとつ手作りで縫製した、こだわりのジーンズです」
ジーンズ以外で主に扱っているのは、男性はUniversity of Oxford、女性はブルーベルというブランドだ。これまでいろいろなブランドを扱ってきたが、この二つのブランドが西荻窪の顧客にぴたりとはまり、喜ばれているそうだ。

父にはいつもお説教をされていた気がする

「うちの父は苦労して商売をしてきた人だからいつも僕が言われたのは、お前は真剣に生きてないって、その言葉はちょっと違うかもしれないけど、なんか人生をなめているみたいなことをいつも言っていました。いつもお説教をされたような気がします。とにかくお説教が大好きでした。まあ、それだけ心配だったんだろうと思います」
西荻窪はみんなゆったり、のんびりしているように思うと裕昭さん。「阿佐ヶ谷辺りと比べると、やる気があんのと言われちゃうけど、その代表だね。私は」と笑う。長く続く秘訣はと訊くと「うーん、なんだろう、流されるままにかな」

この店の何処か緩やかな時間が流れる、リラックスできる雰囲気の理由がわかったような気がした。

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ジーンズショップ オークランド
住所:東京都杉並区西荻南3−10−10
電話:03-3333-6032
営業時間:12:00-22:00
定休日:元日のみ

JR西荻窪南口 仲通り商店街

文:小野由美子 写真:小野英夫

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父子 美への気もち  ― 奥村土牛と奥村森

西荻春秋記事 「父子 美への気もち ― 奥村土牛と奥村森」

「人間だからね、人間なんだから」

 人と関わって仕事をしていく中で間違ったり、思うように進まなかったりする時に、人を責めず柔らかく労わる言葉で、反面放っておけば安きに流れがちな己を律していく時の言葉だそうである。人として理想を掲げたとしても、振り返って恥ずべきことは役々多い。其れでも日々何かを良くしようと務める。それが「人間なんだから頑張ろうよ」なんだと奥村先生は言う。

語られることのない真実

 この記事は、これまで語られることのなかった先生の姿を描こうと思い定めた。何しろ記事を書く身にとって目の前30㎝まで大きな絵に近づいてしまって、その感想を書くようなもので至難の業である。先生と初めてお会いしたのは16年程前で、約8年前からは小さな地域のカルチャー教室「松庵舎」で講師をしていただいている。だからこの記事を書いていいのかどうかも悩むところだった。けれども。人間だから、の視点を含みつつ、憶測や噂を信じてしまうのではなく、敢えて先生が語らなかったことに大切な想いが隠されている。その事を必要な人に伝えたいと願っている。

生い立ちと家族

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 先生は日本画家・奥村土牛の四男で、父・土牛は明治末期から昭和にかけて地道で真摯なあゆみを続けた画家である。昭和22年、横山大観より芸術院会員に推挙され、昭和37年文化勲章を受章。杉並区名誉市民でもある。奥村先生は昭和20年4月、土牛56歳の時に長野県臼田町で生まれた。戦中の疎開先での誕生に両親は無事に育つかと心配をし、父は早く一人前になるよう時々に諭したそうである。本格的に絵が売れはじめ、食べられるようになったのは土牛65歳頃からであり、それまでは逓信省の下絵を描いたり、大学で教えたりしていた。近所に住んでいた吉川英治が子沢山を見かねて、顔が似ているという理由だけで毎日妻に食事を運ばせ、母仁子(きみこ)の姉・森静江が職業を持ち、義弟の家族を支えた。労わりあうよき時代でもあったのであろう。けれども一途に画道に邁進する姿勢と謙虚さ、そして素直さが家族や周囲の人にそのようにさせたのではないだろうか。先生の話される土牛像に素直なところが似ているので、それが自然なことと思える。そして大成するかわからない無名な画家を伴侶に選び、文句のひとつも言わずに支え続けた家族は稀有である。一人の人が或る才能によってひとかどの道を歩めたのは、そのような環境や支えがあってのことなのである。
 とは言ってもそこは明治の人であって、昭和27~30年頃、奥村先生の小学校同級生である冨澤君が、神田川に筏を作って浮かべようと遊びに行くと、画室で黙々と描く姿が見え、「ぎょろり」とにらまれたという。奥村家で同級生と漫才をやることになった時も、他の家族は子供のやることにお愛想でも笑ってくれたのに、にこりともせず「ぎょろっ」と見つめる土牛の姿が印象的だったという。日本画家として対外的に出会った方々の印象が夫々どうであったかはわからないが、家族の前での素顔の奥村土牛はとても素直な人であった。

私たちの願い

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 奥村先生は土牛の人間としての真実の姿を伝えたいと願って活動をされている。普通は親の姿を伝える事に人生を費やしたりはしない。けれども一人の画家が誕生するためには玉虫色ではなく、家族中が苦労を共にしたり、犠牲になったりせざるを得ない。画家として認められるまでの遠い道のりを信じて、プライドを保ちながら邁進し続けるエネルギーを家族が与え続けなければならないのである。世の中がどのように扱おうと、作品はそこから誕生している。だから画家や作品を見つめるためには、真実こそが大事なのである。
 番組では「門」のスケッチ旅行に母・仁子とともに同行した記憶をたどり、「素顔の土牛の人となり」から生まれた作品について解説をする。『城』と『門』。二つの作品は国宝・姫路城を描いた数少ない作品である。そのエピソードは松庵舎講座「美を楽しむ」のレジュメに詳しく書かれているから、ご興味あれば読んでいただきたいと思う。(要お問い合わせ 松庵舎)
 そんな奥村先生をインターネットで検索すれば様々な情報が混在している。この記事の前に読んだ方もいらっしゃるだろう。一番有名なのは課税評価が決まる前に素描等を焼いたエピソード等が語られる『相続税が払えない』(ネスコ)である。インターネットには多くの人々が関心を持って書籍等に当たって感想を書いておられる。ただ本に書ける事には限界もあり、残念ながら先生が本当に大切にされたことはそこには見えてこない。美術界では有名な話であり、当時問題となっていたことは評価額の高い画家の絵を相続した場合、相続税額が現実に遺族が手にする報酬よりも著しく高いことだ。つまり相続税が払いきれないということである。その為に絵が闇に四散し、芸術的な国民資産が大切にされない事を危惧して、先生は努力されたのである。
 世の中の流れに任せて正面からの解決を諦めてしまうと、状況が良くならないばかりか、人の心も堕落の道をたどってしまう。どんなに自分が苦しい時でも、何かを善くするために一旦決めると、ご自身がどうなろうと無謀でも身体を張ってしまわれる。勿論、そんな先生でも人間だから、若い頃から失敗や恥も沢山かいている。失敗多き人間が正義を振りかざすように感じて先生をアナーキストと思った人もいるし、身近な人にとっては「なんでそんなことを始めるのか、大変なとばっちりを喰うのに」と思うだろう。『相続税が払えない』はそんな経験だったはずだ。けれども最後まで意思を通して美術品の相続税制度が変わるまで粘った。ご家族の苦労はそのようなことで心癒されるとは思わないけれども、芸術を大切にする人々にとっては一歩の前進であったことには間違いない。そこに先生の芸術に対する姿勢があるのである。
 そんな奥村先生が「素直」であると言ったら、不思議に思う人もいるだろう。「一度決めたら頑固」「しぶとい」と「素直」がどのように同居するのか。先生は他人の意見を聞く事にとても素直な人である。奥村土牛は「鳴門」を描いた際、当時高校生だった先生が鳴門の渦を「これシュークリーム見たいだよ」と言っても怒らずに素直に直しを入れた。奥村先生は、若者の意見にも真剣に耳を傾け、知らないことは知らないとはっきり言える素直さがある。
 奥村先生は地域の小さなカルチャー教室である松庵舎で、専門である写真と西荻春秋を作っている「ぶらり取材体験」という講座の編集長をしてくださっている。3か月に1度「美を楽しむ」という講座で、父・土牛の画業や子供の頃から触れてきた芸術家達の姿勢を伝えるお話しをする。奥村先生との間には、芸術に対する共通の「想い」がある。作品は「芸術的な価値」を見出される前に、その画家の生き方、つまり「人となり」が生み出したものであるということである。創作に向かう時、単なる思考的構築ではなく、内面を人間的哲学的に磨いて表現を高めていくことが芸術だと思っている。その考え方を拠り所として本質を研究することの重要性と、そうして初めて真実の姿が伝わるにも関わらず、それが如何に難しいか、である。反面、享受する側のわたしたちにとって、芸術は大抵必ずしも身近なものでも優しいものでもない。画家が絵に込めたもの、働きかけてくるものは見えているものだけに留まらない。絵を取り巻く社会も真実を見えにくくする。時として天空の存在へと祭り上げられたたり、全く見向きもされなかったりする。世俗的な評価が独り歩きしがちなのは、一般的にわかりにくいものに対して、かつてはその時代の権威、現在は人気等が投機的価値を持って芸術にまとわりついていたからである。だから誰かの価値観ではなく、自身の価値観で作品を味わってほしい。
 更にはもっと純粋に、時代が変わっても普遍的な価値を見つけ出せないものだろうか。人気によって高く評価された作品でも、時代が移り変わって誰も知らない画家になっていたり、良い作品であっても評価が低く、知られることなく埋もれて消えてしまったり。美術史上重要な人物の作品であっても、現代美術の人気作家より価格が低く設定されたりする。資本主義経済の中で生きてはいても、そこを重要視しない限り、本来、普遍的価値を持っているはずの芸術が、資本主義的貨幣価値へ変換されることに一喜一憂し続けなければならない。そのことに画家や遺族たちが人生を翻弄されることは、苦悩の道だと思われる。そのような思いを共有できるのが先生である。

 画家・奥村土牛の素顔や真実を語ることは時としてそのような美術界に、一石を投じてしまう。それでも、これからは真実を語り伝えるために、牛の歩み資料美術館の開設準備を始める。職人であり「芸術」ではなかった古から、芸術に依って生きることは難しいことであった。でも未来は芸術本来の作用や営みがより幸福なものとなるよう、私たちは努めなければならないと思っている。

文:窪田幸子(牛の歩み資料美術館室長 学芸員) 写真:奥村森

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天草の夢を靴づくりに託して

西荻の乙女ロードにある注文靴の製作と靴と鞄を修理する天草製作所。オーナー、西森真二さん(熊本県天草生まれの47歳)に関する記事です。

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それは路上の靴磨から始まりました

 注文靴の製作と靴と鞄を修理する天草製作所は、西荻の乙女ロードにあります。この店のオーナー、西森真二さんは熊本県天草生まれの47歳、青年のように若いです。彼は、福岡県の大学を卒業して東京にある広告代理店に就職しました。いつかは一国一城の主になりたいという夢を抱きながら10数年間、その代理店で営業の仕事に従事しましたが、「このままでよいのだろうか」ともやもやした気もちで日々過ごしていました。「もう一度、足元から自分を見つめ直したい。路上で靴磨をすれば、見えるものがあるかも知れない」と決意、それを実行に移しました。37歳の時でした。

出発地は中目黒駅のガード下、そして試練の時を迎えます

「会社を辞める際、社長からこれからどうするんだと尋ねられました。靴磨きをしたいと答えると、頭がおかしくなったのかと嘲笑されました。両親からも、どうしてそんなことするのかと心配されました」
「これまでの経歴やプライドを捨て、誰もが望まない路上での靴磨きをすることで、己の固定概念に囚われる殻から脱皮できるのではないか。その時は、まだ独身だったので決断できたのだと思います」
「場所は中目黒のガード下、怖さと恥ずかしさから逃れるように無我夢中で靴を磨いていました。そんなある日のこと、お客様からこの靴いいだろうと言われました。しかし、どこがよいのか判断がつきません」
「 そんなことも理解出来ないで、靴磨きは続けられないと考え、浅草にある靴の専門学校に通い始めました。靴の構造や革の種類や特性に関する知識が高まるにつれ、物づくりの面白さにのめり込んでいきました」
 
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今の夢、New Yorkに店を開きたい

「店名を天草と命名したのは、故郷天草の名に恥じない仕事をして大好きな天草を大事にしたいという思いからです。オープンして3年目ですが、店の看板を見て熊本県出身のお客様が沢山来訪して下さいます」
「帽子にもNew Yorkと書いてありますが、ボクってミーハーでNew Yorkが好きなんですよ。この店のデザインもNew Yorkにあるような店づくりにしたいとこだわりました。何時の日かNew Yorkに店を出したいという希望もあるので」
「西荻には個性的な店が数多くあり、自分の店づくりのイメージにはピッタリな場所です。お客様から革細工や靴づくりの教室を開講して欲しいという声もあるので、この街ですることはまだまだあります」
 
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お店は常に整理整頓、清潔をモットーに

「オーダー靴はかなり高価ですから、妥協や中途半端は許されません。一足作られてから2カ月後にもう一足頼むと来られるお客様もいます。本当に有難いと感謝しています」 店内には、靴注文と靴や鞄の修理受付窓口だけでなく、手縫いのペンケースや子ども靴などひとつひとつに西森流のこだわりを込めたレーザーグッズが整然と並んでいます。
 
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「今スタッフは、妻の麻里を含めて4人で切り盛りしています。スタッフの中には、将来自分の店を持ちたいとの夢を持っている者もいます。自分と思いが一緒なので応援したいと思います。店は子供、スタッフは家族のようなもの。スタッフも店のコンセプトを理解して積極的に意見を言ってくれるので嬉しい、自分の店だから自分が正しいのではなくスタッフ全員の店でもあります、人も育てたい、チャンスには何時でも動くことが出来るように攻めの姿勢でいたいと思っています」
 
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 西森真二さんの夢は、まだまだ大きく広がります。西森さんの天草の青年のような気もちが震災で落胆している熊本の方々に届きますように。
 
天草製作所
〒167-0053 東京都杉並区西荻南2-7-5
Tel & Fax 03-3334-6822
E-mail:info@amakusafactory.com
URL:www.amakusafactory.com
 
西荻窪南口 アーケードを抜けて乙女ロード徒歩5分左側
営業時間:10時~20時(日曜日、祝日~19時) 定休日:水曜日
 
文:冨澤信浩 写真:澤田末吉
 
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和菓子の 「三原堂」 ー顧客に愛されて80余年

和菓子の「三原堂」 — 顧客に愛されて80余年
西荻北 「三原堂」 三代目当主 田中好太郎さんを取材しました。

西荻北 「三原堂」 三代目当主 田中好太郎さん

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 西荻窪駅北口を出て北銀座通りに向かう。三井住友銀行を右手に見ながら少し進むとローソンの丁度向かいにあるのが三原堂である。
 店内に入ると季節の生菓子、最中、おせんべいなどが目に飛び込んでくる。お客様もひっきりなしである。買い物帰りの年配の女性、片手にコーヒーを持った若い男女のカップル、注文の品を取りに来た中年の男性と、老若男女幅広い客層に驚かされる。

祖父が新潟から上京し、西荻に出店

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N002-12-1024x439.png です昭和30年代写真、一番左が創業者の祖父の吉雄さん。隣が妻・好野さんと従業員の方々。昭和27年制作看板、横幅9尺、高さ3尺2寸、厚み2寸、重量65貫目

 西荻の三原堂は昭和10年創業。西荻で二番目に古い和菓子屋である。現在の三代目好太郎さんの祖父吉雄さんが店を構えた。吉雄さんは新潟県小千谷市出身で農家の次男坊。大正初期か中頃、東京に出て四谷の三原堂で丁稚奉公を始めた。(現在でも人形町に本店を構える三原堂は明治10年創業で、その支店が当時は四谷にもあった。)
 その後何年か働いて独立し、暖簾分けされる際、場所は幾つか候補があったが、最終的に吉祥寺と西荻窪に絞った。「うろ覚えなんですが、三鷹の方にお客さんがいたらしく、祖父は電車あるいは歩きでこの辺りを通ってたんですね」
「昭和8年に、幾つかの候補の一つであった旧井荻村(現在の西荻一帯)が区画整理されたんです。隣の高井戸村は田んぼの区画割そのまんまなんですが、旧井荻村は碁盤の目のような区画割で、おそらく住宅の誘致も始まっていた頃だと思われます。お役人さん、今でいう公務員ですね、それから初期のいわゆるサラリーマンが移り住んで来ると思ったわけです。農家の場合は自分の家でお餅をつくけど、彼らはお餅を家でつかないので、和菓子の商売にはいいのではないかと考えたようです。当時は店のそばの信号から北側の向こうにある本町会商店街(今の100円ローソンより北側)が西荻の中心地だったので、ここから南の駅までの間は何もなかった。しかし、これからは駅に近い方がいいということで駅前に店を構えたんですね」

祖父はマメで好奇心旺盛な人

 創業当時の大福帳が今でも大切に残っている。「初日が金105円。昭和10年頃の物価でいくと現在の30万円位。開店のご祝儀もあったかもしれないけど売り上げは結構良かったんですね。他はもっと少ないですけど。」と三代目の好太郎さんは笑う。
 昭和10年の年末のお餅の注文票もある。「関根町、今の上荻4丁目ぐらいだと思うんですけど、中野区の上高田、井荻、松庵、結構三鷹の方まであるんですね。他にお店がなかったんでしょうね。だからそういうところまで配達に行ったんですね」
 昭和11年のスタンプカードも見せていただいた。当時としては斬新である。「30銭お買い上げで一個捺印。今でいうと\1,000で一個捺印。\15,000お買い上げで映画券が一枚付いてくるぐらいのもの。結構割がいい。その頃の映画館って高かったですよね。今でいうとディズニーシーの入場料くらいの値段ですよね。」
 昭和12年頃の新聞の切り抜きを切り貼りしたものも結構残っているそうだ。創業者の吉雄さんは好奇心旺盛で、東京のどこかでこういうセールをやってお客さんが集まったとか、アイスコーヒーの作り方とか情報を熱心に集めていたそうだ。

長年愛される理由は手作りの味

「和菓子も大手さんとかはオートメーション化をしたり、便利な材料ができたりした時代があるわけです。売り込みもあるわけです。機械でお饅頭が作れますよとか、これ入れれば一日しか持たないのが一週間持ちますよとか。でもうちはやらなかったです。昔ながらの手作り。かなり面倒臭いですが、端折らないでというのを今でもやってます。その味を西荻のお客さんがわかってくれるんじゃないかと。それで続けていけてるんじゃないかと思ってます。」

大切にしているのは素材、手間、技術

「お菓子を作るポイントを挙げると昔から素材、手間、技術という感じですかね。素材は安心できるものと昔から使っている材料を守るようにしています。手間は省かず。例えばお餅。機械に頼らず手でこねることにより味が全然違います。そういうところを省かない。技術は職人さんが持っている技術。綺麗に美味しそうに見えるようにと。」

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N003-15-1024x439.png です初代吉雄さんが作成した季節のお題目ノート職人さん達がこの題目にヒントを得て季節の和菓子を創作したというアイディアノート的なもの。

三世代にわたる顧客

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N004-11-1024x439.png です昭和47年鳥一の隣にあった頃、かしわ餅を求めて並ぶお客様

「西荻窪の和菓子屋さんは完全に住み分けができていてバッティングはしません。顧客は代々西荻の方が多いです。西荻はまだ三世代家族が多い。おばあちゃんからお子さん、お孫さんに引き継がれています。」

「デパ地下に入っているお菓子は人にあげるもの。うちのお客さんは自分で食べるために買いに来るので手を抜いたら怖いですね。例えば支店を出して、そこでもまた売るというほど作れるかというとそれだけの量を作れないです。今がちょうどいいくらいで、どんと売り上げを伸ばすとかそういうことは考えてないです。」

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は N005-8-1024x585.png です三代目当主 田中好太郎さん 三原堂のパッケージデザインは全て粛粲寶(しゅくさんぽう)によるもの  *粛粲寶は(1902~1994年)享年93歳。新潟の生まれで、のちに東京に住して洋画を黒田清輝に、日本画を小林古径に学んだ。花鳥、静物、人物画を得意とした日本異色画家と呼ばれる

 サラリーマン時代はマーケティングに携わっていたという好太郎さん。お客さんが何を求めているのかをきちんと受け止めて、昔ながらの味を大切に守り続けていこうとしている。
 店頭で年配の女性が言う。「うちは両親の時代からここなの。だからどこに何があるか見なくてもわかるのね。今日は孫に頼まれておせんべいを買いに来たのよ。孫はここのおせんべいが好きでね。」

 西荻で三世代に亘り愛されている三原堂。その原点は創業以来、今も脈々と受け継がれているのである。

三原堂
東京都杉並区西荻北3-20-12 グラツィオーソ 1階
 03-3397-3998 FAX: 03-3397-3997
営業時間:9:00~19:00
定休日:日曜日
JR西荻窪駅 北口 徒歩1分

信号を渡り『カルディ』より4軒目左手『ローソン』の向かい

文:小野由美子 写真:澤田末吉

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「てんぷら矢吹」 この道60年

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 最初に揚げたての車海老を口元にはこんだ瞬間、何とも言えない香りを感じました。「ワァー、これは…..」。もう言葉がありません。皆さんもぜひ、「てんぷら矢吹」に足をはこんでみてはと思います。

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修学旅行での感動

 矢吹恭一さんは神戸で生まれました。中学の修学旅行で東京に来たとき、自由時間にお兄さんの働く銀座「天一」を訪ねました。そこでご馳走になったてんぷらに感動しました。自分もこういうてんぷらを作りたいと強く思い、卒業後上京して「天一」で働くことになったのです。新入りは自分ひとり。朝から晩までだいこんをおろした日、つらい事やくやしい思いもしました。「いろいろありましたが今はそれが全て役にたっています」と笑顔で話しました。19年修行して、独立は35歳のとき。「天一時代、とても懇意にしていただいたお客様が、骨を折ってくれました。その方との出会いがなければ今の自分はなかったでしょう。」と、とても恩義に感じていらっしゃるようすでした。

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「店を出せばお客が来るというものではない!」

「天一」創業者の言葉です。高井戸には、同業のお店もたくさんあります。1年半位は苦労しましたが、お客様がお客様を紹介して、経営も軌道に乗ったそうです。「口伝えで少しずつ軌道に乗って行きました、お客様のおかげです。本当にお客様に感謝しております」と当時を振り返りました。
 自分の作ったてんぷらに合うお酒にも深いこだわりがあります。いま出している日本酒は「玉の光」「羽黒山」、ビールは「キリン一番搾り」。お酒の話題になると、矢吹さんの顔もほころび話が弾みます。
「人気の銘柄で入手困難なお酒でも絶対に品切れをおこさない、てんぷらとお酒を楽しみに来られたお客様に『お酒が切れています』ではガッカリされるでしょう。こんな失礼はありません」。と、少し強い口調になりました。

労を惜しまず、心、からだで伝える

「労を惜しまない」。これがてんぷら矢吹のモットーです。いつもこの姿勢を忘れずにまな板と鍋の前に立ってきました。現在は、サラリーマンを経験後、料理学校に通った息子さんと二人で店を切盛りしています。もちろん、カウンターの中では息子 優行さんもてんぷらを揚げます。「将来は息子にとの思いはあります」と話していましたが、75歳の矢吹さんはとてもお元気です。てんぷら一筋の人生はまだまだ続くことでしょう。

てんぷら 矢 吹
東京都杉並区高井戸東3-28-24 ドムス高井戸1F
03-3334-0070
営業時間:11:30~14:00  17:00~21:00
定休日:毎週水曜日、木曜日(定休日が祝日の場合は営業します)
* 定休日の情報は2017.1.11に確認、変更させて頂きました。
京王井の頭線高井戸駅下車
環八を北へ徒歩8分 環八井の頭交差点を
右へ井の頭通りを永福町方面へ50m右側
JR荻窪駅南口 バス4番乗り場「芦花公園行」下車10分
バス停「井の頭通り」下車1分 駐車場4台

文: 冨澤信浩&岡村繁雄 写真: 奥村森

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 昭和の文化人に愛された「たみ」 

及川ヤスエさんの人生

 福岡から上京してきた姉妹が紡いだ物語。
 西荻窪の居酒屋「たみ」と国立の「関民帽子アトリエ(現atelier Seki / アトリエ関)」。東京という文化の中心地に飛び込んで夢をかけた二人の物語がここにある。
 西荻窪駅南口から銀座通りをすすみ、郵便局の反対側の路地をまがると「たみ」はある。この辺りの店は概してそうなのだが、昼間はひっそりと目立たないのが多い。夜になるとトマリギ的な雰囲気を醸して客を魅了する。たみはそのなかでも更にひっそりと佇んでいる。
 入口の扉を押すと、視線は自然、お客の背を飛び越えてヤスエさんに向かってしまう。言葉を二、三交わしてから席に落ち着いて、おもむろに相客に挨拶をする。そんな雰囲気なのである。ふらりと店に入ってきてはおのおのカウンターに座って一人酒を傾けながら、及川さんと掛け合い話、と思うと隣、はたまた遠く離れた席とも飾ることなく議論に花を咲かせる。相応しくない客はそこにはいない。

 平成二四年の桜の季節。ヤスエさんは引退した。

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 この街には多くの“西荻らしい”と云われる店が或る。「西荻らしいとは何か?」と問うと「温かそうでつめたいまち」そう答えが返ってきた。人間、文化芸術を縦横に織込んだ「たみ」は一体どういう場所だったのだろう。
「こけし屋はリベラルだけど、うちは左の方が多かった。みな神経質だけれど、優しい。人を傷つけたりしないけれど信念を持っている。広い街で寂しかったから」お酒の飲めない者が脚をむけても受け入れて、良心的な値段だったのはそのようなことだったのだろう。「博識ですね」とむけると「みなお客様が教えてくれた」そう返された。
 北朝鮮新幕生まれ。敗戦の年、ヤスエさんは一七歳で38度線を歩いた。祖父、金子さんが家族とは別の女性を連れて大陸に渡った。どんな汽車も泊まる駅で旅館を開き、家族を故郷から呼び寄せた。朝鮮の人を使用して生活の苦労のない少女時代を過ごしたという。女学校では教室の半分は朝鮮の人で当時は日本名を使用していた。勤労奉仕で松根油を取るための根を掘ったが、暫くして身体を壊し、慰問袋を縫うようになる。
 玉音放送を聞いた時、音が大小して判らず、兵士も「がんばろうということだ」と鼓舞した。一二歳、としの離れた姉の民さんは、当時学校の先生をしていた。父はモダンボーイで玄関先に帽子を引っかけたり、ダンスを積極的に勧め、ホールで踊ったりした。お金が出来て、従兄弟も呼び寄せ学校を出してやったりもした。
 大陸で育った強さが姉妹にはあった。
 引き揚げは過酷なものだった。お金で案内を頼んだが裏切られたり、「休み」と言われて寝てしまい、気付いたら独りぼっちであった。泣いて何時間過ごしたかわからない。親が探しに来てくれなかったら売られていたかもしれない、と云う。
 引き揚げ後、九州の久留米で洋裁の勉強を始めた。父の友人が「勉強するなら東京に行きなさい」と云うので一九四七年姉妹は東京へ出る。姉の民さんが皇后さまの帽子職人でもあった平田暁夫(二〇一四年八九歳にて死去)に師事する為、姉妹は西荻窪に住まう。そして修行中の生計を立てるために社交好きの民さんがガード下で「たみ」を始める。当時珍しい九州の本物の陶磁器を置く店として文化人が集まるようになった。しかし数年を経ずして芸術家、関頑亭氏と結婚。国立に引っ越してしまう。未だ二〇代で「たみ」を引き継ぐことになったお酒も飲めないヤスエさんを心配した常連客が“七人の守り人”となった。
 店は何回か改装をしており、東京オリンピックの年に現在の場所に移転した。ガード下の店を改修した早稲田の有名な建築家、飯田さんの設計によるもので今とは全く異なる山小屋風。入口も現在とは逆の右側で二階にはヤスエさんが住んでいた。七人の守り人は心配して、飯田さんにかわるがわる質問をする。最初は「いらっしゃいませ」も言えなかったヤスエさんが、やめようと思わなかったのは、人と話すことが苦でなかったこと、お客様の存在が大きかった。「お客様に育てられた」と云う。
 現在の店構えは同じく早稲田の建築家、安田与佐氏によるもの。リニューアルは設計だけでなく、暖簾から飾る作品に至るまで徹底して監修。照明は現在の場所に移ってから今日まで近藤昭作氏。のれんは古田重郎氏、マッチは大歳克衛氏のデザインであった。
 ヤスエさんにとってお酒は二の次で奥様をなくされた方、境遇の話がしたい人、自慢話がしたい人、話が大事だった。お酒を出したくない客が来ると「出すお酒がないんですよ」云う。相客が「出してやってよ」と云ってもしらんぷり。外でお客が「ばかやろー」と叫んだりした。

 そんなヤスエさんを支えたのはどんなご主人だったのだろう。及川さんはサラリーマンだったが義姉、及川道子さんは昭和一三年、二六歳で早折した著名な女優であった。家風がとても優しかったと云う。

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 ヤスエさんはいま、帽子アトリエ「関民」で姉民さんのお弟子さん達、約十名の作品に囲まれて店番をしている。帽子作家として有名になった民さんのお店は、国立駅から斜め右手にまっすぐ進む道を左に折れると、その趣或る佇まいが目に飛び込んでくる。

「私だけの帽子」を探しにおとずれてみてはどうだろう。

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参考文献
更谷いづみ著

『帽子作家 関民 Tami’s Spirit ‐こころが動きだすヒント‐』Izumaqui 2011年

Atelier Seki / アトリエ関(旧:関民帽子アトリエ)
ホームページ http://atelierseki.jimdo.com/
東京都国立市中2−2−1
042-574-1771
営業日:月、水、金曜日
定休日:不定休

営業日&営業時間は毎月異なります。お問合せください。

文: 窪田幸子 写真 :澤田末吉

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時計修理一筋人生の村田規晥(ノリキヨ)さん

 初めてお会いした時、ワイヤールーペをつけて迎えてくれました。かたときもこのルーペを離さず過ごされているのではないかというのが第一印象でした。

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 村田さんは81才になります、まだまだ元気に第一線で活躍しております。特別に何か健康法をしていますか?と尋ねますと「いやなにもしてないよ」との返答です。時計に向かって仕事をしている時が一番の健康法ではないでしょうか。

 村田さんは山梨県大月市でお父さんが営む時計修理の家に生まれました。時計の修理だけではなく、蓄音機やラジオの修理も引き受けてご近所からとても重宝で喜ばれていました。小学生のころにはお父さんの仕事を見て機械に興味を持ち、時計や蓄音機のゼンマイの交換をみよう見まねで行っていました。中学生になると自分で5球スーパーラジオを組み立て、「初めてスイッチを入れた瞬間シューツと音が鳴って声が聞こえた時は嬉しかったな~」と懐かしんでいました。

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 その後専門学校のラジオ学科に進み、ラジオの仕組み、原理を学びました。当時父は“経験と感”で故障の原因を見つけて、修理をしていたが、自分は故障の原因を理論的に把握し修理ができて、設計図が頭の中に入っていた。自分でオリジナルのラジオを作り100台ほど売ったよと話していました。
 その頃、兄も時計修理の仕事をしており、初任給が16.800円の時代に月10万円を稼いでいるのを聞いて、自分もやってみたい、その道に進もうと決意しました。バラバラの部品を組み立て完成させる仕事です。普通は一日頑張って20個位でしたが、村田さんは40個仕上げました。何よりも達成感、満足感を満たす事ができ収入も10万円ほど稼ぐことができたそうです。

 そこから修理専門の仕事に進み、多くの同業の方やパーツメーカーの方と人脈が広がっていきました。後に独立してからどんな部品でも入手できるようになったのは、この頃の人脈のおかげですと話していました。やがてメカ時計(機械式)からクォーツ時計の時代に移っていきます。クォーツの時計では長年培ってきた技術は生かせず仕事の量は減っていく事になりますが、あくまで自分の技術を生かしたいと四六時中仕事に没頭できる自宅に時計修理の部屋を作り、村田時計工業所としてスタートしました。その時、銀座の大手時計会社の指定工場になり修理に必要なとても高額な機械、道具など支給していただき強い信頼関係が生まれたと話していました。

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 今は正確な時間を求めるのであれば、電波時計やスマートフォンでいいでしょう。でも自分しか持っていないアンティーク時計、高価なファッション時計やステータスのブランド時計などまだまだメカ時計の愛用者は多くいらっしゃいます。これからも自分の技術は生かせる時代は続く、とにかく時計が好き、どんな時計でも直す事に喜び、生きがいを感じる、リタイアなど考えた事はない仕事ができるうちはいつまでも続ける、と笑顔で語りました。

文:冨澤信浩 写真:奥村森

 村田規晥さんは、2018年8月に故郷の山梨県猿橋の小川でアユ釣りの最中、水難事故で逝去されました。「身体に気をつけるんだよ」と気遣って下さったのが、最後の言葉でした。心より御冥福をお祈り致します。

奥村森

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初代の精神を今も育む、三仁堂薬局

西荻南 三仁堂 片桐秀子さん

 西荻窪駅から五日市街道へ向かい、銀座通りを進むと右側に大きな店構えの三仁堂薬局があります。現在は三代目の片桐秀子さんが中心になって店の切り盛りをしていますが、秀子さんの母、禮子さんも店に出て、元気に顧客の対応に勤しんでいます。伺った日は三の市とかで、足裏での重心測定をしながら、お馴染みさんの健康を気遣う姿が見られました。

 薬を買いに来る人、測定をしに来る人で、店内はまるで病院近くの調剤薬局のような盛況ぶりです。店内の雰囲気も独特。歌を口ずさみながら歩く人、片桐さん親子と世間話をする人、薬の説明を受ける人と様々ですが、みんな楽しそうです。

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 秀子さんの祖父、明治33年生まれの吉太郎さんが昭和5年、現在の場所に薬局「三仁堂」を開店しました。三仁とは、まずはお客さん、次に従業員、そして家族、この三者が丸くおさまって始めて商売は成り立つとの思いが込められています。

 奥の壁には昭和12年に撮影した店の写真が飾ってあります。勿論、白黒で看板文字は今とは逆の右から左。近所の高木写真館さんが撮ったものと思われますが、変色もせず見事に残っているところをみると、相当な腕前の写真師が「三仁堂さんのためなら」と力を込めて仕上げた様子が伺えます。初代、吉太郎さんの人となりが浮かぶ写真です。間口は現在より広く、店前の街頭もたいそう立派で、昭和初期の西荻窪銀座通りを髣髴とさせます。

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 それから数年して、時代に暗雲が立ち込め始めたころ、西荻窪界隈には軍人さんの家が沢山あったので、吉太郎さんは一軒一軒注文を取って回り、商いを続ける一方、西荻窪衛生班の無料奉仕をして地域に貢献していました。三仁堂の精神が、ここにも息づいています。

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 二代目朝良さんの妻、禮子さんは今年、八十歳を迎えましたが、数年前からジムに通い、山歩きをして身体を鍛えています。溌剌と顔色もよく、自ら薬に頼らない高齢者の健康づくりの実践をしています。家事を一手に引き受け、お店にも顔を出して秀子さんの手伝いをするほどお元気です。

 今でも馴染客と会話を交わし、元気な顔を見るのが生き甲斐になっているようで、今は亡き常連客がローソクを「お灯明」「「御明し」と言って毎月買いに来られた話などを懐かしそうに話していらっしゃいました。

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 三代目の秀子さんは、三仁堂の精神を大切にしながらも、新しい経営感覚を取り入れ、ホームページを通じての健康情報の発信をしています。「うちは調剤薬局の資格を持ちながら、ドラッグストアにないきめの細かさでお客様に接していきたい」と話されました。

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 人間の自然治癒力とか、自然なモノの持つ力とか、そういうことをもっと大切にすべきだと思います。骨粗鬆症、貧血、便秘などは食生活を見つめ直すことで、かなり改善するはずです。風邪をひいても漢方薬で治るくらいの体力を維持できるような「身体づくり」をすることが大事。そのため自然の恵みに育まれた健全な食事が大切です。もう一度生活を見直し、親の務めや自己管理の向上についても真剣に取り組んで欲しいと願っています。それを実現するためには、顧客との対話を大切にして、必要な情報を提供できる店にならなければ、と日々努めているのです」と秀子さんは話していました。

Photo

 店内は、漢方あり、化粧品ありで特別に変わった薬局ではありませんが、違いがあるとすれば、薬を売れば薬局の仕事は終わりとは考えていないということでした。人と人とのつながりを大切にしながら、顧客の気持ちになって商いをしているのがよく解りました。

三仁堂
ホームページ http://www.sanjindo.jp/
東京都杉並区西荻南2−21−10
03−3333−1320
9:00-19:30

定休日 日、祝日、年末年始

文:澤田末吉 写真:富澤信浩

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人情パン職人、金原勇三郎さん -夫婦のれん

西荻北 しみずや 金原勇三郎さん

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 西荻窪駅北西、地蔵坂に向かう商店街を通り抜けると間口一間ほどの昭和を彷彿とさせるパン屋「しみずや」がある。主の名は金原勇三郎さん、79歳。
 甲州街道を新宿から下ると直ぐに、かつて巨大なガスタンクがあった。街道の向こう側には元オリンピック選手村で知られる代々木公園、近くには淀橋浄水場や屋形船が往来する十二社の美しい池があった。豊かな自然に恵まれながらも、新時代の息吹が感じられる環境だった。ここで勇三郎さんは生まれ、少年期を過ごした。
 昭和30年、18歳になった勇三郎さんは阿佐ヶ谷のパン工房に入社した。その頃、日本人は戦後の混乱から立直ろうと懸命になっていたが、一般的なサラリーマンでも生活するのがやっとで贅沢する余裕はなかった。
 若者たちは、世界に羽ばたく大手企業をめざして就職活動を展開していた。そんな風潮に逆らうかのように、勇三郎さんはパン職人の道を選んだ。理由は明快、「パン作りがしたい」からであった。

 入社して18年の歳月が流れた。36歳になった勇三郎さんは運命の人、幸子さんと出会い、結婚を決意する。真面目に働いた甲斐もあり、パン販売店を任されるほどになっていたが、店員が貰う給料では到底結婚して妻を養えるものではなかった。

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 独立して幸子さんと力を合わせて店を開店しようと、既に西荻窪にあったパン店の権利を取得して創業したのが「しみずや」の始まりである。称号は、地元に馴染みある前店名「しみずや」を継承することにした。
 幸子さんは、やっかいな仕事を一手に引き受け、勇三郎さんがパン作りに専念できる環境づくりに精を出した。お陰で店は繁盛した。
 潔癖症の幸子さんは、保健所職員もびっくりするほど徹底した清掃をおこなうので、店内には塵ひとつなかった。そんな清潔感が顧客から大きな信頼を受けていた。
 普段は寡黙な幸子さんだが、子育ての方針で夫婦喧嘩すると一度だけではあったが、卵を勇三郎さんに投げつける気の強い一面もあった。しかし夫婦の結束は固く、こんな些細な衝突で揺らぐものではなかった。

人情「シベリア」作り

 勇三郎さんは、顧客に頼まれると断れない性格だ。ある日、上品な婦人が店を訪れ、病に伏す母親が「もう一度シベリアが食べたいと言っているので、作ってもらえないだろうか」と懇願された。以前作ったことがあったので人助けにもなるからと思い、直ぐに了解した。
「シベリア」とは、カステラで羊羹を挟んだ菓子のことである。羊羹をシベリアの凍土に例え、カステラを氷原に見立てたとか、シベリア出兵にちなんで作られ、羊羹をシベリア鉄道の線路に見立てたなど諸説いろいろだ。
 冷蔵庫のない時代、ひんやりとした食感と涼しげな名称が好まれ、昭和初期には子供が食べたい菓子のナンバーワンにもなった。発祥が不明なのも幻の菓子としての効果を高めたのかも知れない。
「シベリア」はカステラや小豆と寒天を煮て羊羹を自前で作らねばならないので、なかなか手間が掛かる。その上、型や材料の都合で一度に40個分も作らねばならない。売れ残るリスクに対する覚悟も必要だ。
 間もなくして「シベリア」が出来上がったので、早速、依頼した婦人に手渡し、母親に食べてもらった。病状悪化でほとんどの食べ物は喉を通らなかったが、「シベリア」だけは「おいしい、おいしい」と喜んで食べてくれた。商売にはならなかったが、勇三郎さんには充実感があった。

 それから数年後、アニメ映画作品「風立ちぬ」の一場面に「シベリア」が登場して話題になった。「シベリア」を売る店がなかったから、「シベリアのあるパン屋さん」として知られるようになった。

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 このエピソードを語る勇三郎さんは、実に幸せな表情をしている。顧客に喜ばれるパン作り、これが勇三郎さんの原点なのだろう。

 妻の死

 平成19年5月7日、最愛の妻、幸子さんが69歳で他界した。直後は店を閉めようかと思ったが、息子さんから「おやじ、何もしないで、これからどうするつもりだ」と気づかわれ、「私も手伝うから店を続けよう」とお嬢さんにも励まされた。
 葬儀を終えてひっそり静まりかえった店に一人戻ると、常連客の寄せ書きが扉に張られていた。「また来るからね、美味しいパン作ってね」、「きっと、おばさんも天国でおじさんがパン作るの待ってるよ」と記されていた。

「これには泣けたなあ」と勇三郎さんは回想する。みんなに背中を押されて勇三郎さんの第二のパン作り人生が再出発した。店の棚には幸子さんの遺影が飾られ、勇三郎さんを暖かく見守っている。

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 ショーケースには、朝から揚げクリームパン、メロンパンなどが並び、午後になると完売状態になる。パンを買い求めに訪れる若者からお年寄りまで、みんな勇三郎さんと親しげな会話を交わして帰っていく。

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 勇三郎さんに一番大切にしているのは何かと質問すると、「正直」という言葉が返ってきた。「しみずや」のパンも正直そのもの、等身大の形と味、そして、平凡にして非凡なパン、人情と信頼がうまさを増幅してくれるのがもっと嬉しい。

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しみずや
東京都杉並区西荻北4-4-5
電話03-3390-6781
12:30-19:30
定休日 水曜日

文:奥村森 写真:澤田末吉

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